宗教者の手のひら返し
普段親交のある宗教施設、宗教団体、宗教者がいて、定期的にお寺や教会などに通っている方から伺う話です。
正式に所属しているお寺や教会などの宗教者の方に、「家族が自死したので、葬儀を執り行ってほしい」というと、「自死は教義違反なので、葬儀はできません」と冷たく言われることがあるようです。
精神的に辛いときに人を支えるのが宗教者の役割なのに、これまで信仰を全うしてきた信徒の方の願いを却下するというのは理解に苦しみます。
しかし、実際にこのような手のひら返しする宗教者がいるのも事実です。
家族が自死したことで、ただでさえ苦しんでいる自死遺族が、精神的な救いを与えるべきはずの宗教者から再度苦しみを与えられるという、大変心苦しい話です。
苦しむ人を救うことより教義の解釈が重要?
私は宗教者ではありませんので、各宗教の教義に立ち入ることはしません。
ただ、人生で最も苦しんでいる人に対して、その苦しみを受け止める、和らげることができない宗教者は、何のための宗教者なのだろうかと思います。
信徒となった方は、定期的に寄付やお手伝いをするなど、お寺や教会と言った宗教施設に貢献されている方が多いです。
そうした方に対して、ある意味裏切りのようなことを平気でする宗教者を許しがたいと思います。
もちろん、宗教なので教義により自死がどのように位置づけられているか、その教義を宗教者がどの程度重んじているかを無視するわけにはいきません。
しかしながら、「教義ではこうだから」と、信徒の苦しみに向き合わない、そして「自死したあなたのご家族は、教えに背いている」といったことまでいうのは、やりすぎではないでしょうか。
精神的な安らぎを与えるはずの宗教者が、その活動を放棄するのであれば、宗教者としてはふさわしくないでしょう。
理解してくれる宗教者は必ずいる
しかし、全ての宗教者が自死または自死遺族に理解がないわけではありません。
例えば、キリスト教における自死は様々な観点がありますが、カトリック(イエズス会)の聖イグナチオ教会では、このような集いが過去に開かれています。
遺族に慰めと癒やしを 聖イグナチオ教会で「自死された方々のためにささげる追悼ミサ
例えば、キリスト教徒が普段通っていた教会から「自死をするような人は教えに背いた人なので葬儀はできない」と言われても、別な教会に行くと苦しみを受け止めてもらい、葬儀を引き受けてくれる場合もあるのです。
自死について理解してくれる宗教者は必ずいます。
よって、冷たい仕打ちをされた宗教施設があった場合、そこに無理に固執して傷を広げたり、葬儀を諦めることよりも、寄り添ってくれる宗教者を探して助けを求めることのほうが、適切ではないでしょうか
これは単に葬儀だけではなく、葬儀の後も続く精神的な痛み、苦しみからの回復(グリーフケア)の観点からも、理解のある宗教者はあなたにとってよい存在、支えとなる存在となるはずです。
信仰を持たれている方が、自死に関して理解のある宗教者との出会いがあること、そして宗教者からのサポートが続くことを祈ります。