自死
自死遺族が遺品整理を行う5つのポイント | シンパス相談室
以前に、遺品整理を急かしてはいけないという記事を執筆しました。 自死遺族本人、または家族は間違った判断をしないために、また辛い状態なのに急かされて遺品整理に向かうことで精神状態を悪化させないために書いた記事です。 ただ、家族の自死からある程度時間が経過して「そろそろ遺品を整理したい」「立ち向かいたい」という気持ちが出てきた場合、何に気を付けて行えばよいのでしょうか。 今回は、自死遺族が遺品整理に立ち向かうに当たって、気を付けるべきポイントについてお伝えします。 1.1人でやらない まず、自死遺族の方は1人で遺品整理をしようと思わないことです。別な家族、または友人などにお願いして同席、または手伝ってもらうべきです。 一人で遺品整理をしようとすると、目の前にある遺品、つまり思い出が詰まった品々に心が持って行かれそうになります。良かった思い出、辛かった記憶が噴出し、感情の収集がつかなくなります。 もし遺品整理をするのが1人でなく、もう1人誰かがいれば、普段の会話をしながら、または遺品にまつわる思い出を聞いてもらいながら遺品整理に向かうことができます。辛い思い出を想起したとしても、「この遺品にはこういう辛い思い出があって、目にするのもしんどい」と話しながら遺品整理をすることで、心の中に全てをため込んでおかずに済みます。 「今更、遺品に関しての思いを口に出したところで何の意味があるのか」と思う方もいるかもしれませんが、口に出して思いを吐き出すというだけでも、十分に意味があります。そして、誰か聞いてくれる相手がいてくれないと思いを吐き出すのは難しいことなのです。 2.そこまで辛くない遺品から取り掛かる 遺品の中にも「向き合うのが大変に辛い品々」もあれば、「相対的に考えるとそこまで辛くない品々」もあります。自死遺族が最初に取り掛かるべきは、「そこまで辛くない品々」です。 遺品整理のはじめに、向き合うものが大変辛い品々に取り掛かってしまうことは、「心が受け入れられる状態になっていないのに、無理をすること」です。感情的に無理をした場合、その無理は長続きしないのです。遺品に向き合う辛さで、精神的・身体的にしんどくなって寝込んでしまうこともあります。そして、「遺品整理に取り掛かったが進められなかった」という挫折感、失敗体験だけが残ってしまう人もいます。 そうではなく、まずは「相対的に見てそこまで辛くない品々」、負荷が小さいものに取り掛かることで、小さな成功体験、「わずかながらとはいえ、遺品整理ができた」を積み上げていく必要があります。成功体験を積み重ねていくことで、より辛い思い出が含まれている品々に向かうことができます。 「辛い品々」は後回しにして、「そこまで辛くない品々」から取り掛かりましょう。 3.辛くなったら中断して、「そのうち」再開する 遺品整理は長期戦です。1日や数日で一気に片付けるべきものではありません。 よって、「辛くなったら中断する」「そして、『そのうち』再開する」と決めましょう。 遺品整理を始めたときには「大丈夫」と思えても、整理していくうちに辛くなることは一般的です。この状態で無理に遺品整理を続けることは、傷口が開いたままスポーツを続けるようなもので、心身の不調を招きかねません。 「辛い、しんどい、これ以上はやりたくない」と思ったら、中断する勇気を持ちましょう。同席してくれている方に対して「せっかく時間を割いて同席してくれたのに、進められず申し訳ない」という気持ちになるかもしれませんが、家族や友人への後ろめたさから無理に遺品整理を続けても良い結果となりません。 再開する日を決めずに『そのうち』とすることも大切です。「いつから再開する」と決めてしまうと、そこに縛られてしまいます。そして、決めた日に再開できなかった場合、失敗体験が積みあがってしまいます。 4.遺品整理に時間をかけても悪くないと信じる せっかく遺品整理を始める気になったのだから、一気にやらねば、と思う方は少なくありません。 特に、何年も遺品に近づけなかった方に顕著かもしれません。 しかし、遺品整理は「亡くなってから数年経ってから手を付け始めて、手を付け始めてから終わるまでにさらに何年もかかる」場合もあります。しかし、時間をかけることは悪いことではありません。 自分の心身の状態を見ながら「できそうな片付け」を少しずつ取り掛かればよいのです。他の人が短時間で終わらせているから、など比較する必要はありません。「早く遺品整理を終わらせること」がよいことではなく、「個々人が無理のないペースで終わらせること」がよい遺品整理です。 5.無理に捨てない 客観的に見れば、取っておいたところで使い道もない遺品はたくさんあります。いや、遺品の大半はそうしたものかもしれません。 だからといって、「心に無理をして多くのものを捨てる」必要はありません。スペース的に余裕があれば、「今のところはそのまましておいて、また後で取り掛かる時に考える」というように、判断を先送りにしてもよいのです。 無理に捨ててしまったものほど、後になって「あの時に捨てなければよかった」と後悔し、判断を悔やんでしまうことが多いのです。客観的に見れば、重要には見えない品々であってもです。 よって、心から納得するまでは無理に捨てない、「捨てない勇気」「先送りにする勇気」も必要です。 同席する家族・友人は「客観的な意見」を言わない 勇気を振り絞って遺品整理に取り掛かる自死遺族に同席する人は、何を心がければよいでしょうか。 大切なのは「客観的な意見」を言わないことです。 例えば。「どうみてもガラクタで、かさばって、再び利用できるものでもない遺品」があったとします。「客観的」に見れば、「場所を取るし、もう使うこともないので、優先的に処分すべき品」に見えたとしても、思ったままの客観的な感想・意見をすべきではありません。 遺品の一つ一つには、自死された方と自死遺族の思い出が詰まっています。それが良い思い出であれ、辛い思い出であれ、です。そして、どの品にどのような思い出が含まれているのかは、他人からは決して見えてきません。 よって、「客観的にはこう見えるから、こうしたほうがよい」といった意見をしないことが大切です。もし意見すれば、その意見が圧力となってしまいます。その圧力が故に、自死遺族は無理な判断をしてしまいがちです。 同席者がすべきなのは、自死遺族が一つ一つの遺品に向かい、あふれ出る思い出を口にしたときに、それに耳を傾け、辛さに共感することです。
自死遺族になってから友達に会えなくなった | シンパス相談室
自死遺族となってから、これまで親しくしてきた友人に会えなくなったという方は多くいらっしゃいます。今回は、友人に会えなくなったという点について考えてみたいと思います。 なぜ友人と会えなくなったのか 「辛い時こそ支え合うのが本当の友達」という言葉がありますが、自死遺族に関してはこれは当てはまる場合と、そうでない場合があります。それは、「自死遺族」が持つある種の特殊性から来ています。 (1)根掘り葉掘り聞かれる 自死遺族の友人の多くは、自死遺族がどのような思いをして毎日を過ごしているか、友人と会うのにどれだけ勇気を振り絞ってきたかについて、理解がありません。このため、一般的な「生活に起こる大変な出来事」と同じように、色々と事実を聞いて来ようとする場合があります。 誰が なぜ いつ どこで どのように どんな方法で 家族の自死に直面した自死遺族が、友人のペースで、いわゆる5W1Hに事実を聞かれて、それに答えねばならないのはある意味拷問です。 (2)意見される・批判される 物事を解決する方法を議論するのであれば、「これまでのやり方で良くなかった点を洗い出して改善する」ことが必要かもしれませんが、自死遺族の心の対処はビジネスではありません。 この点に配慮ができない友人が、「あなたがあの時こうしていればよかったののでは」「**が足りなかったのではないか」「**が良くなかったと思う」など、起こった事実について品評する、つまり間接的に批判された場合、自死遺族が再び辛い思いをします。辛い思いをしている中で、勇気を出してきたのに、なぜさらに辛い思いをしなければならないのか、と。 (3)的外れの励まし方をされる 以前、自死で失った人の代わりはいないのに、的外れの励まし方をされるという記事にも書いたのですが、自死遺族の辛さについて理解がない人は、的外れの励ましをして、さらに自死遺族を苦しめてしまいます。 多くの人は自死遺族となった苦しみを理解しているわけではない、また自死遺族となった友人に会うために、ことさらの準備をしてきているわけではないので、的外れの励まし方をされる確率はそう低くはないのです。 (4)幸せを「見せつけられる」気がする 友人にとって悪意は全くなくても、「自分が失ってしまった大切な人が、友人にはいる」というだけで、会いたくないと感じることがあります。 お子さんを亡くされた方が、お子さんが元気な友人に会う。 配偶者を亡くされた方が、配偶者が元気な友人に会う。 親御さんを亡くされた方が、親御さんが元気な友人に会う。 兄弟を亡くされた方が、兄弟が元気な友人に会う。 友人は、目の前で一生懸命話を聞いてくれている、嫌なことは一つも言わない。むしろ自分によく共感してくれる。しかし、とはいっても、自分は大切な人を失ったが、友人は失っていない。羨ましく思う。そして、そう思ってしまう自分が駄目だ、と思う。こうした気持ちを持つ人は少なくないのです。 また、家族以外についてもあります。 自分は辛く苦しい日々を過ごしているが、友人は元気そうにしている。 自分は仕事もままならない状況だが、友人は普通に仕事をしている。 自分はおしゃれする精神的な余裕もないが、友人はおしゃれして会いに来てくれている。 こうした精神的、物理的な余裕をみせつけられてしまうことも、会いたくないと思う理由になります。 (5)困らせたくない 今まで、友人とはよい関係できた。ただ、自死遺族となった自分と友人が相対して、「どのような言葉をかければよいのか」「どのような表情をすればよいのか」「何を言ってよくて、何を言ってはいけないのか」など、あれこれ考えさせるのは心苦しい。 また、自分と会ってしまうと、自分の「辛い、悲しい、悔しい」という話を聞くことになり、友人にとってのせっかくの時間が重苦しいものとなってしまう。申し訳ない。 こうした「友人に対する配慮」から、会いたくない、会わないほうがよいと考える方は多いです。 会っても大丈夫そうな友人とだけ会う まず、自死遺族となった人が「友人に会いたくない」と思う時、無理して友人に会う必要はありません。「大切な友人だから、会って何があったのかを伝えなければ」といった使命感から会う人もいますが、大変な辛さを伴うことがあります。自分の心に大きな負担をかけてまで、会う必要はないのです。 「この人なら会っても大丈夫」と思える人とだけ、「今なら会っても大丈夫」というタイミングで会えばよいのです。 人によって、友人と会う時に何を辛いと感じるかは異なります。 例えば、「子供を自死で失ったので、とにかく子供がいる友人には会いたくない」のであれば、「独身で子供がいない友人と会う」「結婚しているが、子供がいない友人と会う」のでよいのです。 「とにかく話を聞いてほしい。意見されたくない」という場合には、「徹底して聞き上手な友人と会う」のでよいのです。 失礼な言い方かもしれませんが、友人の属性や能力、性格によって「会う、会わない」の判断をしましょう。 新しい「友人」と会う 特に辛いうちは、これまでの友人とは一切会いたくないという方は少なくありません。そうした場合は、「自死遺族の分かち合いの会」などで知り合った方の中で、「この人なら大丈夫」という方と個人的に会うなど、これまでの友人とは全く別の新しい「友人」と会うようにするのも手です。 自分の過去について、ある意味「知りすぎている」友人と会うのは気が引けるが、過去についてほとんど知らない人であれば「自死遺族として苦しんでいる私」だけを見てくれるし、引け目も感じない。そう考える人は少ないありません。 なお、対面型のカウンセラーと会う、という方法もあります。自死遺族へのカウンセリング経験がある方であれば、会うことで傷つくという可能性は低いので、ある意味安心です。ただ、会っている時間はお金が発生しますし、その金額も安くはないので、「信頼できるカウンセラーがいて、ここぞという時の切り札として使う」くらいの頻度で利用するのがよいかと思います。頻繁に会っていると、多くの人にとっては金銭的に大変かと思います。
死にまつわるニュースに苦しむ自死遺族 | シンパス相談室
自死遺族になる前は、全く気にも留めなかったようなニュースにより苦しい思いをする方がいます。 今回は、ニュースをテーマにお伝えいたします。 なお、この記事により辛い思いを想起するかもしれない、と思われる方は、以下をお読みにならない方がよいかもしれません。ご注意頂ければと思います。 自死遺族を苦しめるニュース 自死遺族となる前と、なった後では「世界が一変したようだった」と語る方は少なくありません。 そして、毎日見るネットやテレビ、新聞のニュースにより強い感情が想起され、とても辛い思いをする方は非常に多いです。 有名人・著名人の自死のニュース 自死した家族と同じ方法で死亡された人のニュース 同じ年代の方が亡くなったニュース 自死した家族と関係のある土地の方が亡くなったニュース 同じ日付に亡くなったニュース 例えば、「家族が縊死という方法で自死された」場合、「カルト教団の教祖の絞首刑が執行されました」というニュースは強い感情を想起するニュースとなります。 また、「25歳の家族が自死された」場合、「25歳の方が交通事故で亡くなった」とニュースは強い感情を想起させるニュースになります。 このように、起こったニュースと、自身の家族の自死を関係づけて受け止めてしまい、苦しんでいる自死遺族は、とても多くいらっしゃいます。 関係ないと分かっていても、想起して苦しんでしまう 自死遺族のほとんどの方は、辛さそのものだけでなく、「直接関係ない『死』のニュースと、自分が愛する人が自死したことを結び付け、苦しんでいる自分」そのものに苦しんでいらっしゃいます。 直接関係ない死と、家族の自死を関連づけたい理由はありません。むしろ、一切関係ないものとして認識できれば、苦しみを想起せずに済むのです。 しかし、自然と関連付けてしまう、想起してしまう、苦しみを感じてしまうことを防ぐ方法はないのが実情です。 (外からの情報について完全に身を守る方法はないのは、救急車反応と同じです) そして、単に苦しさを感じるだけではありません。 「安定した気持ちで過ごしていたのに、ニュースを知ってしまったために、突然苦しみが想起された。結果、その日は以後、何も手につかなくなってしまった」というように、日常が突然中断させられ何もできなくなる場合もあります。 物事が中断させられることにより、生活や仕事に支障をきたしてしまうこととなります。 「関係ない」と指摘するのでなく、「関係ないのに想起してしまい辛い」気持ちに寄り添う ニュースから家族の自死を想起して辛い思いをしている自死遺族に対して、「ニュースはあなたとは何も関係がない」と指摘してもあまり意味がありません。 それを一番よくわかっているのは、苦しんでいる自死遺族だからです。 よって支える家族としては、「関係ない」と指摘するのではなく、「関係ないと分かっているのに、辛い思いを想起してしまう苦しみ」に共感して寄り添ってみてはいかがでしょうか。 なお、気持ちに寄り添ったからといって、自死遺族の辛さがなくなるわけではありません。 苦しみに寄り添うのは、あくまで「今の辛さを少しでも緩和するため」であり、「辛さの根本治癒」ができるわけではありません。 こうしたニュースに接しても辛さが和らぐようになるには、ある程度の時間が必要です。 さらには、辛さを想起しないようにする本人の意思の持ちよう、努力が合わせて必要になることもあります。 寄り添うことによる効果を過信することはできません。 しかし、周囲の家族には寄り添うことしかできない場面も多くあります。 とはいえ、寄り添ってくれる家族や愛する人がいるのといないのでは、もちろんいる方がよいわけです。 こうした状況では、支える家族は「寄り添って共感する」という行為を過信せず、かといって過小評価もせずに、寄り添って支えるという小さな努力を続けましょう。
自死遺族のTwitter利用のすすめ | シンパス相談室
親しい人が自死したことにより、大変な辛さを感じているが、家族や他人にこの辛さを言えない、話す意欲すらない。ただ、言葉にできないことにより心の重しが強まっていることも分かっている。 そんな方は、Twitterを使って心の内を吐き出してみるのも手です。 (ちなみに当サイトはこちらのTwitterアカウントを利用しております。ご興味ありましたらフォローください。) Twitterのすすめ 自死遺族にとって、Twitterの良い点を以下でご説明します。 140字の短文投稿=ブログを書くほどのエネルギーがいらない Twitterのメリットは全角140字という短さです。 自死遺族となってから、自分が感じること、辛さ、苦しさ、後悔などをまとめてブログに書きたい、胸の内をさらけ出したいという方は少なくありません。 しかし、自死遺族となったことによる辛さがあまりに大きいため、感じたことを網羅的に長文で書くだけのエネルギーを持てない方が多いのです。 しかし、Twitterは最大でも全角140字です。少ない文字数で投稿しても問題ありませんし、「辛い」という一言だけでもいいのです。 エネルギーが消耗しているときに、たくさんのエネルギーを使わずに投稿ができるのは、Twitterの大きな強みです。 スマホから利用可能=どんな姿勢でも利用できる 自死遺族の方が、肉体的、精神的に疲れ果てていて、ベッドに横になっていても、スマホからTwitterで投稿できるのがよいところです。 どのような状況でも、どのような姿勢でも、思いを吐き出したい、誰か見知らぬ人が読んでもらいたい。そう思ったときに最小限のエネルギーでも使えます。 これに対して、ブログは長文になるほどパソコンで入力する方が多いので、起き上がった姿勢でパソコンに向き合わねばなりません。 Twitterと比べると、若干ハードルが高いです。 匿名性が守られる そして、Twitterが良いのは匿名であることです。 匿名だからこそ、誰に気兼ねすることなく心の中の感情をそのまま出すことができます。家族、友人、知人、親戚などの目を気にすることはありません。 自死遺族となってからは、周囲にどれくらいの深さで自死についての話をすればよいか迷ってしまう方はとても多いです。そして、こうした迷いを持つこと自体も自死遺族を苦しめる材料になってしまいます。 Twitterであれば、誰に気にすることなく、自分の心の赴くままに投稿できます。それが倫理的に反していることであっても、とがめられることはまずありません。 他のユーザーとの交流 Twitterで自死に関連するキーワードを探せば、同じ自死遺族としての辛さを持っている方が大勢います。そして、ほとんどの方は匿名で投稿しています。 Twitterで似た境遇にいる人を見かけると、「自分は今、近しい人を失ってとても辛い思いをしているが、辛い思いをしているのは自分だけではない」ということを。実感を持って理解することができます。 もちろん、自分以外にそうした辛さと共に生きている人が大勢いることは分かっています。しかし、日々の苦しみ、辛さを切々と投稿する方がいるからこそ、「自分は一人ではない」「自分だけが苦しんでいるわけではない」と思えるのです。 また、自分の投稿に対して、他の自死遺族から反応があることもあります。そうすることで、人生でこれまで一度も接点がなく、一度もあったことがない、そして今後も会うことがないだろう人たちと、励まし合うことができます。 自死遺族がTwitterを使う注意点 自死遺族がTwitterを利用する上で注意しなければならないのは2点です。 言葉の暴力を受ける可能性がある Twitter上には、例えば「自死遺族」といったキーワードで検索して、見知らぬ人に対してけんかを売るような言葉を投稿するユーザーもいます。 こうしたユーザーがいるから、言葉の暴力を受けるのが怖いから、Twitterを利用したくないという方も多いかと思います。 これを防ぐには、アカウントを鍵をかける(承認しないと投稿内容を見られなくする)方法がありますが、これだとほとんど交流できません。 よって、交流もしつつ、言葉の暴力を最小限にする現実的な方法は、「暴言を吐かれたら、すぐに攻撃的なアカウントをブロックする」です。 暴言を受ける可能性があるのは残念ですが、「自死遺族」というキーワードで活発に攻撃的になるアカウントはほぼいません。 ほとんどのユーザーは、自分の辛さを語りたい、辛さを共有できる人たちと匿名で交流したい、というものです。 特定のユーザーに依存してしまう 自分と同じ境遇だった、頻繁にレスをくれる、投稿内容がよく共感できる。 こうしたユーザーに対して一方的に入れこんでしまう、別な言い方をすると「依存してしまう」「幻想を見てしまう」方がいます。 特定のユーザーのコメントに頻繁に返信したり、コメントを求めたり、直接会うことを要求する、DM(メッセージ機能)を何度も送ったりすると、相手は不快感を感じる場合があります。 そして、不快感を感じた相手はあなたをブロックする可能性すらあります。 信頼できる人だと一方的に思っていたが、ブロックされたりすると非常に悲しく成ったり、精神的に不安定になる。また「裏切られた」という感情が出て、怒りが表出することもあります。 他のユーザーとは、近すぎず、遠すぎずの距離感を保つ Twitterを利用している自死遺族の方を拝見すると、あくまで「自分の辛さを出す場所」として使っている方が多いです。 他の自死遺族の交流よりも先に、自分の辛さを出す場所として価値を見出しています。 ゆえに、Twitter自体、他のユーザーとよい距離感を持って利用されているなと思うことが多いです。 また、「自分の発言に対して返信を求めない」「特定の人に対してばかりコメントしない」「意見が違う人がいても反論せずスルーできている」方が多いと感じます。 これまでTwitterを利用されてこなかった方は、まずは自分の思いを出す場として使い、それから徐々に他の自死遺族の意見を確認したり、コメントしていくのがよいかと思います。 Twitterが、多くの自死遺族のとって、少しでも辛さを癒すツールとなることを祈っております。
自死遺族の救急車反応を理解する | シンパス相談室
自死遺族が苦しむ反応、フラッシュバックの一つとして、命日反応がありますが、これに似た反応のひとつに救急車反応があります。 救急車のサイレン音が近づくと平静でいられない 同居している家族が、自宅で自死された場合、自死した日の記憶は鮮明に残ることが多いです。 ただ、自死したときの状況や言葉のやり取りが、後日そのまま再現されることはありません。 しかし、自死した家族を発見した後で119番連絡し、その後サイレンを鳴らして駆けつけてきた救急車の音を聞くと、「家族が自死した日のことを鮮明に思い出してしまい辛い」という方は多くいます。 救急車の甲高いサイレン音は、傍で聞いていてもかなりの大音量、そして特徴的な音です。 これを自宅の前で大きな音で鳴らされることにより、家族が自死した日の記憶とサイレン音が強く結びつきます。 このため、「街角でたまたま救急車に遭遇したとき」や、「自宅の前をたまたま救急車が通過したとき」に、「自死の日の辛い記憶が思い出され、悲しくて仕方なくなる」「叫びたくなってしまう」「恐怖を感じる」のです。 サイレン音から身を守る方法はありません 家族が自死したときの記憶を思い出して辛い時には、「家族が亡くなった部屋には入らない」「遺品整理は後回しにする」「特に心身消耗している家族に対しては言葉を選んで話をする」といった対応ができます。 サイレン音が大変なのは、対策のしようがないことです。 自宅前を通る救急車だったり、街角を通る救急車に「サイレン音を消してください」とお願いすることはできません。 サイレン音があまりに辛いからと言って、イヤーマフや耳栓をつけて生活するわけにもいきません。 もちろん、もし自宅にいるときにサイレン音が聞こえてきたら、すぐにイヤーマフや耳栓をする、外の音が聞こえにくい部屋に移動するという緩和策はあります。ただ、全く聞こえないようにするのは難しいです。 「少し平穏な日々を過ごしたと思ったら、サイレン音が聞こえたことで、再び自死の記憶が鮮明に思い出されて辛い。そしてこれを防ぐ方法もない」と、自死遺族は落ち込んでしまいがちです。 救急車のサイレン音を辛く思うことを理解・共感する サイレン音が辛いと感じている自死遺族の多くは、「たかがサイレン音なのに、これを辛いと思ってしまう自分のことが嫌になる」という方は少なくありません。 論理的には「今聞こえてきたサイレン音と、自分の家族の自死とは何も関係がない」と思えたとしても、沸き上がる感情は論理を超えて押し迫ってきます。 自死遺族を支える家族がすべきなのは、この辛さを否定しないことです。 ・「たかがサイレン音でしょ」 ・「このサイレン音と、家族の自死は全く別なのだから気にすることはない」 ・「いつまでサイレン音が辛いとか言っているんだ」 ・「もっと気を強く持って」 こうした発言は、自死遺族が感じる辛さを否定し、頑張りが足りないから辛く思えるのだと指摘するものです。 自死遺族の方は、既にもう頑張りすぎるほど、頑張っています。それでもサイレン音が辛いのです。 支える側の自死遺族がすべきなのは、辛さを認めて、理解・共感することです。 ・「あの日のことが想起されて辛いよね」 ・「サイレン音を聞くと感情が揺れ動くのは、どれだけ大変なことかと思う」 ・「あんな大きなサイレン音を鳴らすことないのにね」 そして感謝の言葉を付け加えてみてはいかがでしょうか。 ・「そんな中、毎日頑張って生きてくれてありがとう」 ・「日々立ち向かってくれているから、家族一緒に過ごすことができているよ」 サイレン音による大変な辛さは、必ず乗り越えられます。 特に辛いご家族が、「今、家の前を通りすぎた救急車からサイレン音が聞こえたが、この音と家族の自死のとは関係ない」と思える日が来ます。 このためには、サイレン音に対する辛さを否定せず、理解・共感すること、そして長い目で暖かく見守ることが必要です。
自死遺族に対して「自分だったらはこう思う。こうする」は禁句 | シンパス相談室
自死遺族の方の苦しみ、辛さ、もどかしさを聞いて、「どうにかしてあげたい」「助けたい」と思うと同時に、「どうしてこのように考えてしまうのだろう」「自分だったらこうは考えないのに」と思う方は多いのではないでしょうか。 しかし、この「自分だったら」は言ってはいけない禁句です。 「自分だったら」と思ってしまう構図 父を自死で失った息子と娘、子供を自死で失った父親と母親といった人たちを思い浮かべてみてください。 客観的に見れば、「同じ兄弟姉妹だし」「同じ親だし」ということで、同じような辛さや苦しみがあると思いがちです。 しかし、辛さや苦しさが強く出て、日常を過ごすことが本当に大変になってしまう人もいれば、大変だけれども日常を回せてしまう人もいます。 (日常を回せてしまう人は、「辛さを押し殺している」人もいれば、「本当に辛さをそこまで強く感じていない」人もいます。念のため) ここで例として、父親を自死で亡くした息子(太郎さん)と娘(花子さん)を考えてみましょう。 花子さんは大きなショックを受け、日常生活に大きな支障が出ているが、太郎さんはそこまでの衝撃は受けていない。もちろん、大きなショックは受けているが、会社や飲み会、友人との趣味もこれまでと大きく変わらず行っている。 太郎さんは、兄弟である花子さんが大変な思いをしているのを見て、何とかしてあげたいと思い、花子さんの思いを聞く場を持ちます。 そして、どのような思いを抱えていて辛いのかを理解しようとします。 これに対して、花子さんが「自分はこのようなことが辛い、悔しい、苦しい」と胸の内を吐露しますが、太郎さんは「なぜこれだけ辛い、悔しい、苦しい」かが理解できません。 理解できない状況に直面したときに、支える人の話の持って行き方は2つです。 1つは「相手の立場になって考える」、そしてもう1つは「自分の立場から考える」です。 「相手の立場になって考える」ことが慣れていない人や、今回の例の兄弟のような場合は、「自分のほうがうまく乗り切れている=自分の考え方が正しい」と思い込み、「自分の立場で考え」てしまうのです。 そして太郎さんはこう言ってしまいます。 「そうか、花子、辛いよな。でも、自分だったらこう考えて毎日を過ごしていて何とか乗り切っているよ」 太郎さんは「自分が考える乗り切る物事の考え方を教えてあげた。花子にもとてもよかっただろう」と思います。 しかし、花子さんは「太郎は自分の考えを言ってくるだけで、私の目線で物事を見てくれなかった」と失望を深めます。 「100%の善意」であっても、無理解の行動は助けにならない 上記の例の場合、花子さんは「たった一人の兄弟である太郎は自分のことを分かってくれない。いや、分かろうとする気がない。相談しても無駄だ」と孤立を深めてしまいます。 そして太郎さんは「せっかく時間を割いて話をしたり、アドバイスしたのに花子は理解したり行動する気がない。これ以上話しても無駄だ。あとは専門家の領域だな」と思い、ある意味「見放して」しまうことさえあります。 このように、いくら太郎さんが善意があって取った行動であっても、相手の目線で理解しようとせずに、「自分だったら」と言い続けているのでは、時間を割いて話を聞いたり話をしたりしても、助けにはなりません。ひどい場合だとむしろ有害になることもあります。 「同じ兄弟で、同じ状況なのに、自分はこうやって頑張っている。君は甘えているだけだ」と責める 「僕にできることは何もないので、後は医者やカウンセラーにでも行けば」と言い、これ以上助けようとしない 話には付き合うが、実際は聞き流しているだけで、全く共感する気がない。時間を割いて話を聞いたという「形」があれば、それで役に立ったと思い込む もし、あなたがこのような行動をとっていると自覚するのであれば、いますぐ修正すべきです。 苦しみを同じ質量で受け止め、今日生きてくれていることに感謝する 先ほどの太郎さんと花子さんの例をもう一度引っ張り出しましょう。 太郎さんはどうすればよかったのか。それは「自分だったら」という前提を全て捨てて、「花子さんの苦しみ」に目を向けて、花子さんが感じる重さで苦しみの質量を受け止め、理解しようと努力し、共感することがスタート地点です。 言葉を並べるだけでなく、心から共感したうえで、「そうか。それだけ苦しいのか、悔しいのか、辛いのか」というだけでも花子さんはずいぶんと救われます。 そのうえで、そんな苦しい日常を送っている花子さんに「苦しみに耐えて生きてくれてありがとう」と感謝を伝えてはいかがでしょうか。 自死遺族の苦しみは「自分も自死したくなる誘惑」「朝起きると絶望が待っている」「救えなかった自分をひたすら責める」といったもので、これまでの人生で最も辛い体験だったという人がほとんどです。 そんな苦しみを四六時中抱えている人に対しては、人と比較されたり、立ち上がれない自分を責めたり、絶望したりという感情の中で暮らしています。 少しでも良い感情、暖かい感情が伝わるように思いを伝えましょう。
自死遺族の話を聞くときは、話を先回りしない | シンパス相談室
仕事においては先読み力は大切な能力です。しかし、自死遺族と対面してその話を聞くときは、先読み力は無価値どころか、有害なものになりかねません。 以下でご説明します。 先を読みすぎる=結論待ちになる 先読み力とは、相手が何か発言した際に、その後どのような話の流れになるか、何を発言すればよいかを察知する力です。 仕事においては、社内や顧客のニーズを正しくくみ取って、先回りして対応していくという意味では大切な能力です。 しかし、自死遺族に対峙するときに、この能力を発揮させすぎると「結論待ち」になってしまい、自死遺族の辛さへの共感力が弱まってしまいます。 例えば、自死遺族のAさんがが「辛い」と言ったとしましょう。 そして、この話を聞いている方が「自死遺族が辛いというと、特にBについて辛いはずで、Bの辛さはこの原因からきている。そしての辛さの周辺要因を一つずつあげていき、最後はCに対する怒りをぶつけるのではないか。だから、私はCに対する怒りをぶつけた際にそれに共感するのが役目だな」というように、話の流れを先読みしてしまったとします。 話を先読みしてしまうと、Aさんの話は全て、最後の結論にたどり着くまでの「仮説の正しさの証明」になってしまいます。 つまり、話を受け止めるのではなく、自分が立てた仮説が順番に正しく進んでいくかを確認するだけの行為になってしまい、心が動かなくなるのです。 心が動かないと、出てくる発言も薄っぺらいものになってしまいがちです。 ちなみに、経験豊富なカウンセラーだったり、高齢で様々な経験を積んできた人であっても、相談相手の話を「自分が考える自死遺族像」に落とし込んで、話を先読みして結論待ちになる人もいます。 経験があるのはよいことですが、経験に依存して色眼鏡で物事を見るのはよくありません。 できるだけ先入観ゼロで話を聞く 特に初めて話を聞く相手であれば「自死遺族はこうだ」「こういう話になるだろう」といった先入観を持たないことは大切です。 「自死遺族はこういうことに苦しんでいる」という本を読んだとしても、その知識を使って話を先読みしてはいけません。 (なお、こうした本で役に立つのは、『これだけは言ってはいけない』禁句でしょうか) 先読みするのではなく、まっさらな状態で話を聞きましょう。 まっさらな状態で話を聞いて、相手の苦しみを自分の中で再現して、辛さを感じる、受け止める、一言一言の発言を頭の中で何度か再生してみましょう。 せっかく時間を割くのであれば、相手の話を楽に「流す」のではなく、相手にとって意味のある時間となってほしい、と思うはずです。 そうであれば、先読みして「楽」をしないことです。 繰り返し同じ辛さを言う人に、対応するための先読み力はあり 例外ですが、「毎度同じ辛さを言ってきて、毎度同じ対応することが求められている」「対応するのに疲れている」場合は、先読みはありです。 例えば、「仕事から帰ってきたら配偶者が毎度同じ自死遺族としての苦しみを言っている。いつも心を動かしていたら支える側の精神が持たない」「毎度同じ反応をすることが安心感につながる」といった場合です。 こうした場合は、相手の話を聞きながら「先読み」して、予定通りの話の流れに対して、予定通りの反応で返すようにします。 自死遺族を支える側は、自身の日常を過ごしながら、家族を支えるというある種の「難事業」に挑んでいます。 できることもあれば、もちろん、キャパシティー的にできないこともあります。 ただ、「辛い場面にいる家族が最も求めているものは何だろう」と考えて、自分のキャパシティーと相談しながら、できるだけ真摯に向き合うことをお勧めします。
自死された方のご遺骨について | シンパス相談室
自死遺族の方が、自死された方を見送り、その後ご遺骨をどうすべきか悩まれてしまうことがあります。 以下では、個人的な経験についても踏まえながらご説明いたします。 急いで埋葬しなくていい。自分の心に従う 自死により亡くなった方のご遺骨について悩まれている方は、似て非なる悩みをお持ちであることが多いです。 例えば、関係が良好だったご家族がが自死された場合、ご遺骨を埋葬する踏ん切りがつかない方は多くいらっしゃいます。 「埋葬してしまうと、愛する人が本当にいなくなったことを認めてしまう気がする」 そうおっしゃった相談者の方もいらっしゃいます。 また、家族の間でご遺骨の埋葬を早く進めたい方、逆にまだ埋葬したくない方で意見が割れることもあります。 当相談室では、自死遺族となられたご家族の全員が「埋葬してもよい」という心境になるまで待った方がよいとお伝えしています。 一度埋葬してしまったら、その後再度埋葬しなおすことはかなりの労力がかかりますし、埋葬方法(例えば海洋散骨など)によっては埋葬しなおすことが不可能となります。 先祖代々のお墓があれば、そこに入れるのがよいのか、または故人の性格や希望などを考慮したうえで別な埋葬を考えるべきなのか。 こうしたことに冷静に向き合える自死遺族の方は少ないでしょう。愛する人の自死による感情の荒波の中にいて、埋葬のことまで考えを向けられない方も多いのです。 葬儀を終えたから、49日が過ぎたから、1年が経過したから、というように何かの節目で「早く埋葬したほうがよい」という圧力が、別な自死遺族からかかることもあります。 しかし、一般的な区切りと、それぞれの人の心の区切りのタイミングは必ずしも一致しません。 世間の尺度に無理に合わせることはありません。急ぐこともありません。本当にもう埋葬してもよいというタイミングになるまで、お手元にご遺骨を置いて置かれるのがよいのです。 ご遺骨に毎日語り掛けることで、愛する人の死を受け入れたという方もいらっしゃいます。 また、自分が亡くなるまで生涯ご遺骨を手元に置いておかれる方もいます。 どう埋葬したいのか、したくないのか。 一度決断してしまうと、取り返しがつかないことです。 よって、他の誰かの言うことに従うのではなく、自分の心に従いましょう。 手元に置いて置けないが埋葬したくない場合 もし、手元にご遺骨は置いて置けないが、埋葬したくないという方は、ご遺骨の一時預かりサービスを利用するのがよいでしょう。 墓苑などが、安価な費用でご遺骨を預かってくれます。 なお、このサービスの多くは、墓苑の集客活動の一環として行われることが多いですが、ご遺骨を一時的に預かってもらったからといって、その墓苑と契約をしなければならないわけではありませんのでご安心ください。 ちなみに私は、首都圏の某墓苑のサービスを利用して、非常に安価な金額で、自死で亡くなった家族の遺骨を預かってもらいました(なお、預かり期間終了後、その墓苑とは契約していません)。 ご遺骨を引き取らなくてもいい 関係が良好でなかった家族が自死した場合の話です。 どうしてもご遺骨を引き取りたくない、という方もいらっしゃいます。そうした場合は、火葬の際にご遺骨の引き取りを拒否すれば、火葬場により埋葬され、ご自身が埋葬する必要はなくなります。 ちなみに、ご遺骨の引き取り拒否は珍しいことではなくなってきています。 亡くなった方との関係が良好でなかった場合だけでなく、葬儀を簡素化したい、墓を作りたくないといった方々も率先して引き取り拒否をしています。 納得して決断を 心理的に不安定な状態で、慌ただしく事が進んでしまうと、大きな声を出す人の意見に引っ張られそうになります。 しかし、そこで「私はまだ決めたくない。待って」という勇気をぜひ持ってください。 一度埋葬してしまうと、基本的に取り返しのつきません。 そうなる前に、声をあげてください。 どんな決断であれ、納得した決断をされることをお祈りしています。
宗教者しか言えない「救い」がある | シンパス相談室
2018年6月20日 自死
傾聴やカウンセリングを行っていると、限界を感じることがあります。 私が感じる限界を超えて、感情の交流ができる人、それは宗教者、宗教家(僧侶、神主、牧師、神父など)ではないかと思うのです。 (なお、私は強い信仰を持っている人間ではないことをあらかじめお伝えしておきます。また、当相談室はいかなる宗教団体とも提携など行っておりませんし、勧誘も行っていません。念のため) 魂についての質問 私を含めた一般人は、忙しい毎日に追われて過ごしており、生きることとは、死ぬこととはについて深く考える場面がありません。また、人が亡くなった後について思いをはせることもほとんどありません。 宗教者はある意味、一般人の真逆です。生まれてきた子供が入信したり洗礼を受けたり、またこれまで親しくしていた信徒の方が亡くなったりと、生と死に日常的に向き合っています。 私は、これまで自死遺族を支えてきた経験を踏まえた傾聴とカウンセリングにより、自死遺族を支える方のお役に立てていることはありますが、とはいえ、言葉に詰まる場面もあります。 例えば、人が亡くなった後の話だったり、魂の話だったりです。 もちろん、経験と知恵をフル動員してお話を聞いたり、逆にお話をさせて頂きますが、「自死遺族の方や、支える方々が本当に望んでいる感情のキャッチボールができているのだろうか」と思い悩んでしまうこともあります。 ここで宗教者です。 宗教者は、自らが属する宗教、宗派、団体の教えや、そこから導かれる考えを伝えることができます。 宗教者の話というのは、科学を超えた見えない世界の話、または伝承されているある種の神話などの話や教えに基づいています。 よって、生と死について、死後について、魂について、生きることについて、なぜ生きるのかについてなどの話を、宗教的な教えというバックボーンを持って話をすることができます。 例えば、「死後の世界」について証明することはできません。しかし、人はそこに思いをはせて知りたがります。 この証明できない世界について、バックボーンを持って説明できるのは、ほぼ唯一宗教者だけではないかと思います。 よき宗教者との出会いはかけがえのないものになる 強引な勧誘をしたり、多額の寄付の強要をする宗教を除き、よき宗教者によって伝えられる宗教や教えは、人が辛い時にしっかりと支えになります。 どの宗教、団体。宗派が良い悪いという話ではありません。 どの宗教であったとしても、最も大切なのは団体ではなく、人です。一人一人の宗教者です。 「優れた宗教者との出会い」が人生にとってかけがえのないものになる可能性があります。 もし、辛い経験をした方が答えのない問いに向き合っていたり、証明できない答えを追い求めている場合、信頼できる宗教者の手助けを求めてみるのも一案です。
自死遺族の話を聞くときは客観的、俯瞰的になりすぎない | シンパス相談室
「客観的に物事を見る」「俯瞰的に考える」という言葉は、一般的にはよい意味で使われます。 しかし、自死遺族の話を聞く観点に立つと、諸刃の剣となるので注意が必要です。 自死遺族を支える人が、自死遺族の話を聞く際に注意頂きたいポイントです。 話を聞く相手の立場にのみ立つ 仕事の会議の様子を思い浮かべてください。 ある人が「A」という意見を言い、別な人が「B」という意見を、そしてまた別な人が「C」という意見を言ったとします。 こうした場合、会議でよく見られる光景は、出席者がA, B, C という3つの意見を比較検討し、分析やリスクを織り込んだ上で、一つの落としどころに集約していくことです。 こうした進め方は、ビジネスにおいてはよくある、客観的で俯瞰的な物事の考え方、決断の下し方です。 しかし、自死遺族と対峙するときは、全く違います。 今まさに自分が話を聞く方の立場にのみ立って、意見を聞くべきだと私は思います。 話を聞く方の苦しみ、悲しみ、後悔、怒りといった感情を、できるだけそのままで理解して感じるには、他の人の立場に立ったり、他の人の感情を再現しすぎてはいけないと思うためです。 例えば、自死した方の配偶者の方の話を聞いている際、配偶者の方と対立している義理の両親(自死した方の実の両親)がいたとします。 こうした場合、配偶者の方の立場に立ち続けないと、他の人の立場や苦しみなどにも理解が行き過ぎてしまい、話す内容がぶれてしまいます。 自死遺族同士で対立して辛い、苦しいと言っている方に、「対立している相手も同じように辛い、苦しいですよ」と返答することは、何の救いにもなりません。 しかし、話を聞く人の立場に立ち続けないと、周囲の人の感情にも共感してしまい、ついつい発言が右往左往してしまいます。 「主観的」になる もし、「客観的、俯瞰的なアドバイスが欲しい」「相手がある物事を解決したい」といった相談であれば、様々な人の立場に立ち、客観的、俯瞰的なアドバイスをすべきでしょう。 しかし、感情の荒波の中でいて辛い思いをしている方に、客観的、俯瞰的なアドバイスは役に立ちません。 相手の立場に立ち、相手と同じ思いを感じることが、自死遺族と向き合う第一歩です。 バランス感覚は不要です。まずは。相手になり切って徹底的に「主観的に」なりましょう。 「私の立場で理解してくれている」「私の側に立ってくれている」ということが、信頼の積み重ねになり、話すことによる価値が高まると感じます。 客観的な意見が未来永劫不要になるわけではありません。 しかし、客観的、俯瞰的な意見が必要になるのは、多くの場合相当先のことです。 それまでは相手の立場にのみ立ち続けましょう。