兄弟
家族が自死で亡くなったことを他人に言うべきか
家族が自死で亡くなった場合、自宅前にはパトカーや救急車がサイレンを鳴らして来るため、「何かが起こった」ことはすぐに近所には知れ渡ります(特に地方や戸建ての家であればそうです)。 自死直後の対応や葬儀などが終わってから、「そういえば、何があったの?」と近所の方や他人から聞かれた場合、どう答えるのがよいのでしょうか。 「家族は自死で亡くなった」というのが勇敢で最善の選択肢か? 自死遺族にとっては、愛する人が自死したというのは、これまでの人生で直面したことがないほどの大きな衝撃です。自死を選ばざるを得なかった家族に対して、自分は十分な助けの手を伸ばしていたのだろうかと、悔しさ、悲しさ、そして自分や自死した家族に対する怒りで自分の身が焼き尽くされそうになります。 そんな状況において、「何かが起こった」ことだけを知っている他人がやってきたとします。 この際、「家族は自死で亡くなった」というべきか、それとも「別なこと」をいうべきでしょうか。 最近はメディアなどで、「家族が自死だったことを顔出しして言う」方がよくクローズアップされます。そして、メディアはこうした人を「家族の自死を正面から受け止め立ち向かう、勇敢な方だ」と取り上げます。こういう風潮が出てくると、「家族が自死だ」ということを言わない、隠すことはとても後ろめたいことのように思う人もいるかもしれません。 しかし、ちょっと待ってください。自死遺族となったあなたにとって、「今」大切なことは、何でしょうか。 残念なことを先にお伝えします。 「家族が自死した」ことを近くに住む他人に伝えた結果、「適切な助けの手が差し伸べられる」ことはまずありません。 適切な助けの手とは、「実は自分も自死遺族で大変辛い思いをした。何もできないが話したくなったら連絡してきてください。一生懸命聞きます」というように、押しつけがましくなく、かつ自死遺族の感情をよく理解した「心に寄り添う」ことだと私は考えます。しかし、自死遺族の前にこのような方が来ることは、大変残念なことに99.9%はありません。 代わりに登場するのは、あなたの愛する家族が自死したことを「ニュース」「噂話」として消費したいだけの人たちです。 「2丁目の佐藤さんの息子さん、自殺したっちゃんだって」 「ちょっと暗い感じの息子さんだったわよね」 「あの感じじゃ、会社でもうまくやれなかったんじゃないかしらね」 「友達とか彼女とかもいたんだかいないんだか」 「家にこもってゲームばかりしてそうな感じよね」 そして、ダメ押しの内容がこれです。 「きっと、家族がちゃんと支えてあげなかったから、死んじゃったのよ。お父さん、お母さん、兄弟は何していたのかしら」 自分が愛する家族、そして愛する家族が亡くなっても生きていかねばならない自分と生き残った家族は、周囲からこういう対応をされることを望むでしょうか。 自死遺族となったあなたが今必要なことは、「自死遺族としての辛さ、苦しさと向き合いながら毎日を乗り越える」ことです。 毎日を生き延びるために必要なこと、手助けを得られる確率が高いことはできる限り試してみるとよいでしょう。逆に言えば、手助けを得られる確率が低いことや、自分の心をかき乱したり、興味本位の言葉の刃を向けてくる人を遠ざけねばなりません。無用なストレスはできるだけ少なくすべきです。 本当に大切なことが何かを考えたときに、「家族が自死した」と言わないことは、多くの場合にとってよい選択肢となる。私はそう思います。 「家族は自死で亡くなった」という前に気を付けたいこと ちなみに、私は「家族は自死で亡くなった」という人を攻撃する意図は全くありません。 家族の自死と向き合ううえで、「家族が自死で亡くなった」と言わない、言えないことがあまりに重いと感じる人は、「自死で亡くなった」というのも1つの方法だと思います。 ただ、言う前にはよくよく考える必要があります。それは、 一度言った言葉は引っ込められない 自分だけでなく、家族にも影響が出る ということです。 まず、「自死で亡くなった」と言わない場合は、後になって「実は自死だった」ということはできます。「あまりに辛かったから自死と言えなかったのだろう」と周囲は思うだけですし、自死してから時間が経過していれば興味本位の好奇心もずいぶんと減っています。自死したその時を知っている人もずいぶん少なくなっているかもしれません。 しかし、「自死で亡くなった」と言った後で、あまりに辛いからといって「実は自死ではなかった」という修正はできません。「自死で亡くなった」というのは一方通行で逆戻りできない、引っ込められない言葉です。それゆえによくよく注意する必要があります。 次に、「家族が自死で亡くなった」というと、自分だけでなく各家族の交友関係にも知れ渡ります。例えば、兄弟が「家族が自死だった」と言った場合、自死であることを言いたくない父や母の交友関係にも知れ渡る可能性が高いということです。家族間で「自死だったと言いたい」「言いたくない」の意見が分かれるのは自然なことです。ただ、「言ってしまえば言葉は引っ込められない」ため、「言いたくない」家族に最大限の配慮が必要です。例えば、自宅から離れた会社関係の人には言うが、地元の友人には一切言わない、といった配慮です。 繰り返しますが、「家族は自死だった」といった後、言葉は引っ込められません。そこで自分が受けるだろう不利益、家族が受けるだろう不利益をよくよく考えましょう。 言う、言わないは1と0ではない 自死に関して他人に言う、言わないは1と0のように、完全に白黒がつくものではありません。 例えば、「信頼できる友人にだけは言う」「遠くに住む親戚にだけは言う」ことは良い方法だと思います。 言うと決めたからと言って、自分に悪い影響を及ぼしてくる可能性がある人を含めて、全員に言う必要はありません。この人であれば大丈夫、という人に限定して伝え、助けてもらう、話を聞いてもらうというアプローチは現実的です。 また別なアプローチとしては、「かなり後になってから言う」という選択肢もあります。 例えばミュージシャンのYOSHIKIさんは、10歳の時に父親を自死で亡くしていますが、それを公表したのは40歳を過ぎた後になってからです。ちなみにYOSHIKIさんの場合、自死だと言わなかったのは「父が自死した翌日から父について触れられなくなった」という、家庭の影響が強いため「自死と『言えなかった』」という縛りが強かったのではないかと推察します。しかし、いずれにせよ「自分で『言っても大丈夫』という状況になってから言った」という冷静な判断はとても参考になります。 言う、言わないは皆さん一人一人の人生においてとても大切な要素になります。メディアを見て「言うことが素晴らしい、言わないのは逃げだ」という短絡的・理想主義的な考え方ではなく、「自分が大切なものを守るためには、どちらがいいのか」という現実的な考えを持っていただければと思います。
自死遺族が1日を乗り越えることがどれだけ大変かを理解する | シンパス相談室
誰にでも平等に訪れる1日。この1日を「やり過ごす」ことが自死遺族にとってどれだけ大変か。 「自死遺族の苦しみ」と一言でまとめてしまうと漠然としてしまいますが、自死遺族にとって「1日をやり過ごす」ことこそが最も辛いことなのではないか。そう思い、書きました。 1日中、そして終わりなく続く 愛する人が自死した後、一般的にはさまざまな感情の大波がやってきます。 そして、その大波が去った後に自死遺族として最も辛い時間がはじまる。そう感じる方が多いようです。 朝、 目を開けたくない。ふとんから出たくない。部屋から出たくない。シャワーを浴びたくない。家族と会いたくない。服を着替えたくない。ちゃんとした時間に起きられない。自己嫌悪。 日中、 早く時間が過ぎて一日が終わらないかだけ考えている。食事も食べたくない。何もやる気がしない。家の外に出るのも億劫だ。ピンポンが鳴ったが出たくない。 夜、 なぜ明日という日が来るのか恨めしく思う。眠れない。ふとんの中でスマホを見ても気がまぎれない。このままでは明日も起きられない。焦る。 そして、朝も昼も夜も、自死した愛する人を思い出します。 自死遺族でない方は想像してみてください。「自死遺族が辛い」というのは、沸騰するような感情に身を焼かれ、活動ができなくなり、そのことにより自分を責める。そして、これが毎日繰り返されるということです。 このループからいつ抜けられるのかは、全く分かりません。すべきことがあっても、守らねばならない人がいても、達成したい目標があっても、できないのです。 「努力不足」ではない。もう努力しすぎるくらい努力している 自死について理解のない人の中には、「ご家族の方が亡くなられたとはいえ、いつまでもそれを引きずっているのは努力不足」だという人がいまだにいます。 自死遺族、という言葉が一般的になりつつあるので、口には出さないが、実は努力不足だと思っている人も少なくありません。 しかし、もちろん自死遺族が努力不足であるわけではありません。 例えば、「1日何もできない」「家事も仕事もできない」「生活リズムもめちゃくちゃ」という自死遺族がいたとして、その人は怠けているのでしょうか。 違います。 その人は「1日をやり過ごす」、いや「1日を乗り越える」という、辛く苦しい、そしていつ抜けられるか分からない苦闘に毎日挑んでいるのです。 「朝の来ない夜はない」という言葉があります。 しかし、「いつ朝が来るか」分からない状態で、辛く苦しい明日を迎えることの恐怖こそが、自死遺族が最も辛いことではないか。筆者はそう思います。 家族・友人は「1日を乗り越える」苦闘に共感する 人間は、「合格した」「賞を取った」「何かをやってくれた」「お金をたくさん稼いだ」「昇進した」というように、物事を達成したり、行動したりしたときに、賞賛や感謝の言葉が出てくることが多いと思います。 もしあなたの愛する家族・友人が自死遺族として苦しんでいるとしたら、あなたに対して「素晴らしい行動」を取ってくれることは難しいでしょう。 しかし、自死遺族にとって最も辛い「1日を乗り越える」ということに直面していることを忘れないでください。 「1日を乗り越える」辛さに向き合うことは、誰かから賞賛されることではありません。 賞賛されるどころか「生活リズムがめちゃくちゃ」「家事もやらず怠けている」などと言われることのほうが多いかもしれません。 しかし、毎日の辛さと真剣に向き合っていることこそ、賞賛に値するのではないでしょうか。 自死遺族となった家族や友人が、誰からも賞賛されない辛さを毎日、毎日乗り越えていることに思いをはせて、あなたならではの共感の言葉をかけてあげてください。
自死遺族は時間の経過とともにサポート役が変わる | シンパス相談室
突然ですが、ご自身の人生を振り返ってみてください。それぞれのタイミングで一番仲良しだった人を頭に浮かべてみてください。 小学校のとき 中学校のとき 高校のとき 大学のとき 社会人になったとき 30代になったとき、、、 多くの人の場合は、「一番仲良しの友達」はどんどん変わってきているのではないでしょうか。実は、これと同じことが自死遺族にも起こります。 否認から抑うつまでは「とにかく話を聞いてくれ共感してくれる人」 一般的に、愛する人の死を受け入れるためのプロセスは以下の5ステップと言われています。 否認 愛する人が亡くなったはずはない。生きているはずだ。亡くなったと認められない、というように「死を受け入れない段階」。 怒り 何故私を残して旅立ってしまったのか。何故私は止められなかったのか。何故周囲は気づかなかったのか、と「自死した方、自分、周囲に強い怒りを感じる段階」。 取引 自分もあの世に旅立ってもいいので会いたい、**を諦めるので戻ってきてほしい、と「何かと引き換えに愛する人を戻してほしいと感じる段階」 抑うつ 思い悩んだが愛する人は帰ってこないことに苦しむ、辛すぎて日々の生活に支障をきたす、というように「愛する人が戻ってこない現実に強く落ち込み絶望する段階」 受容 愛する人が戻ってこない現実を受け入れ、それでも自分の人生を歩むことを決意し受け入れる段階。 ちなみに、この5ステップが1ステップずつ、規則正しく順番にやってくる自死遺族は多くありません。例えば、「否認と怒りが一緒に来る」「否認と怒りと取引が一緒に来る」といった具合です。よって、1ステップずつやってこないからといって心配する必要もありません。 さて、筆者の経験では、「否認~抑うつ」と「受容」では、友人・話し相手・カウンセラー、そして家族に求める能力は異なります。 まず「否認~抑うつ」の段階では、「とにかく話をよく聞いてくれ、反論や否定せず、辛さを共感してくれる」のが大切な能力です。辛く苦しい精神状態では、自分の感情を吐露することさえ大きな壁のように感じる人は少なくありません。こうした人に対して、「**をしたほうがよい」「そういう考えはよくない」とアドバイスや『助言』をすることは望ましくありません。必要なのは、相手の言葉をスポンジのように吸収し、それを自分の中で再現して相手に寄り添うことです。これこそが必要な能力です。 参考記事 ・自死遺族に対する「アドバイス」に価値はない 受容の段階では「よい影響・エネルギーをくれる人」 「否認~抑うつ」を経て、「受容」の段階にいると感じる人は、自分を支えてくれる相手に求める内容が変わってきます。 受容の段階では、「愛する人がいなくなったことはとても悲しくて辛い」という感情と、「活動的な自分に戻りたい」という感情が併存しかかっています。 「併存できている」のではなく、「併存に向かっているが、完璧に併存できているわけではない」という意味です。ここを読み間違ってはいけません。 この段階で支える側として必要なのは、「悲しくて辛い」という感情を理解し、そのうえで「前向きになれる影響・エネルギーを渡す」ことです。 回復してきたように見えると、急に「**したほうがよい」とアドバイスしてくる人がいますが、そういうアクションは単なる押し付けで逆効果です。「**したほうがよい」「**すべき」という言葉を出さずに、「よい影響を与えたり、活動するエネルギーを与えられる」人が必要です。 「よい影響を与えたり、活動するエネルギーを与えられる」というのは、とても漠然とした言葉ですが、何をもって「よい影響」「エネルギー」とするかは大きく異なるため、ひとまとめにお伝えできないのです。 例えば、「同じ自死遺族で、辛い状況から立ち直った方と話してエネルギーをもらいたい」という人もいれば、「一緒にできる行動を、さりげなく誘ってほしい」という人もいます。「辛さについて話すのではなく、以前していたような雑談を友人とすることでエネルギーが出る」「昔からの趣味に徐々に戻っていく後押しがほしい」という方もいます。千差万別なのです。 そして、ここで理解しておきたいのは、「否認~抑うつ」のステップで必要な資質と、「受容」で必要な資質は違うこと、そしてそれは悪いことではないことです。 例えば、「否認~抑うつ」を支えてきた人が、「受容」のステップではうまく役割を果たせないことがあります。これは、必要となる資質の属性が異なるためです。よって、これまで長らく支えてきた方が「受容の段階でサポートできない自分はだめだ」などと落ち込む必要はありませんし、お門違いの属性を身につけようと努力することもありません(そもそも努力して身につけられるものでもありません)。 そして、「否認~抑うつ」の間、何も助けにならなかった人、積極的にサポート役に回ってくれなかったような人が急に「役立つ」ようなこともあるのです。「長らくご主人が奥様を支えてきたが、奥様が回復するに従って、ここ数年ほとんど会っていなかった友人の役割が大きなものになってきた」といった具合です。 長らく支えてきた方からすると、起こっている変化について、そして新たに助けになってくれる人が「本当に助けになっているかどうか」は、行動や言動を見ながらある程度見抜けるはずです。間違った方向に引っ張られていないか(カルト宗教の勧誘など)どうかを確認しながらも、支える側としても変化を受け入れ、そしてその変化を喜べる日が来ると信じて頂ければと願います。
自死遺族の辛さはなぜ理解されないか、2つのグラフで説明する | シンパス相談室
自死遺族の方の多くは、「愛する人が自死したことによる辛さ」に加えて、「自分の辛さを理解してもらえない」という辛さに直面します。 的外れな励まし、「回復」への期待、「そろそろ大丈夫だろう」といった思い込みなどは何から生じるのかを考えると、2つのグラフに集約されるのではないかと思いました。 自死遺族の辛さは時間とともにどう変化するか はじめに、自死遺族の辛さについて確認してみます。筆者は、数カ月~1年という期間で見たときの辛さの変化は、以下のような方が多いと感じます。 愛する人が亡くなった直後は、精神的に大きな打撃を受け、起こった事実を受け入れられないという辛さがありますが、その後の「状況を受け入れた後の辛さ」のほうが本当に辛いという方が多いように思います。 数年、10年、何十年というスパンで見ると、辛さは次第に減っていきます。しかし、数カ月~1年というスパンで見ると、「時間が経つにつれて辛くなる。そして、ずっと辛いまま」と感じます。 自死遺族ではない方は、自死遺族の辛さをどう理解しているか 次に、自死遺族ではない人は、自死遺族の辛さをどう理解しているかについてです。 自死遺族でない人は、数カ月から1年というスパンであっても、「時間が経つと辛さが減る」と理解します。 このため、自死遺族でない人は、自死遺族に対して「Xカ月も経ったのだから通常通り仕事してほしい」「1年経ったからそろそろ回復してほしい」といった発言をすることになります。 自死遺族の多くは、数カ月から1年というスパンでは、辛さが増しているのが実態であるのに、周囲からは「時間の経過とともにどんどん回復しているはずだ」という思い込みで判断されているのです。 自死遺族の方は、自分の辛さの変化について理解してもらう 自死遺族と、そうでない人で、「自死遺族としての辛さ」について大きなギャップがあることがお分かりいただけたかと思います。 では、自死遺族の方は心無い発言からどう身を守ればよいのでしょうか。 それは、理解してもらう必要な相手に対しては、話す機会を見つけて「自分の辛さがどう変化したか」「自死直後と比べて、今はどれくらい辛いか」を説明して理解してもらうことです。 もちろん、こうした説明をすること自体がかなりの精神力を使いますので、大変なことでもあります。 しかし、一度理解してもらえれば、無理解に基づく発言により精神的に傷ついたり、仕事やプライべートで支障をきたす場面を減らすことができます。 自死遺族の周囲にいる多く人は、自死遺族に嫌がらせをしたいわけではありません。 ただ、無理解によってつい傷つけることを言ってしまうことがあるのです。 こうしたリスクは減らすことができれば、お互いがストレス少なく過ごせます。 自死遺族でない方は、「時間の経過とともに辛くなる」ことを理解する 自死遺族でない人は、自死遺族は「時間の経過とともに精神的に楽になる」のではなく、「時間の経過とともにむしろ辛くなることが多い」と理解しましょう。 理解すれば、「時間の経過とともに回復する」という思い込みに基づいた発言・要望を出して、自死遺族を傷つけることも減るはずです。 以上の内容が、多くの自死遺族ならび自死遺族でない方に届き、無理解によって自死遺族が傷つくことが減ることを祈ります。
最初 (1年目) の命日反応を乗り切る3つのポイント | シンパス相談室
ご家族や愛する人が亡くなって、時間が経過して命日を迎えるとき、「どのように命日を乗り切ればよいのか」「命日反応とどう向き合えばよいのか」と思い悩む方は多くいらっしゃいます。 以前にこちらの記事を書き、多くの方にシェアを頂きました。 ・自死遺族を支える家族は命日反応にどう向き合うか | シンパス相談室 シェア頂いたコメントを拝見する中で、最初の命日をどう乗り切るかは、あまり重視されていない(よく分からないうちに命日になってしまう)ように感じました。 よって今回は、最初の命日に向かう上で、どういう心持ちや備えがあったほうがよいか、という内容に特化して執筆しました。 1.自分はどう過ごしたいのかを考える 多くの方は、最初の命日が近づくにつれ、様々な思いがよぎり大変に辛い思いをされます。 「命日の前でもこれだけ大変なのだから、命日になったらどんなに辛いのだろうか」 そう仰られる方も少なくありません。 命日ならび命日反応を乗り越える、いや、「やり過ごす」上で最も大切なのは「自分はどう過ごしたいのかを考える」ことです。 例えば、「できるだけ命日であることを意識せずに過ごしたい」という方もいれば、「亡くなった愛する人の思い出に浸りきりたい」という方もいます。 「できる限り一人で過ごしたい」方もいれば、「一人だととても辛すぎるので、家族や友人と過ごしたい」という方もいます。 「その日は仕事を休みたい」という方もいれば、「普段と変わらずに仕事をして過ごしたい」という方もいます。 「一周忌をやりたい」「墓参したい」という方もいれば、「儀礼的なものは何もやりたくない」という方もいます。 最初の命日をどう過ごすかについて、全ての人に当てはまる正解はありません。 ご自身が、このように過ごしたいという思いの通りに過ごすべきです。 ご自身が、自分が思う通りにその日1日を過ごした。 命日なので、様々な感情が沸き上がって来るものの、誰に強制されたわけでもない、自分が思う通りに過ごした、という事実が大切です。 2.必要に応じて家族・友人・会社関係に協力を求める もし配偶者を亡くされた方が、現在一人暮らしであれば、自分が思う通りに1日を過ごすのは容易かもしれません。 しかし、家族がいたり仕事があったりする場合、自分の思いを伝えて理解してもらい、その思い通りの一日になるようにサポートを得ることは大切です。 そのためには、早い段階で「自分が頭の中で考える、思う」だけでなく、「言葉」なり「メモ書き」などで、自分の意思を明確に伝えましょう。 別の家族が、自分とは違う命日の過ごし方を既に準備していた、その準備にはそれなりの労力や費用がかかっている場合は、どうしても他人の意思に引っ張られてしまいますので、注意が必要です。 というのも、家族がいる方は、家族それぞれごとに「どのように過ごしたいか」が衝突することもあるかもしれません。 これは、筆者の個人的な意見ですが、「無理に全員で同じ過ごし方をする」よりも、「意見が分かれた場合は、それぞれがやりたいように1日を過ごす」ほうがよいと思います。 大切なのは、自分の過ごし方とは違う家族を攻撃しないことです。 別の家族からみたら「愛情がない」「儀礼に欠く」「自分勝手でわがまま」と見える場合もあるかもしれません。 しかし、異なる人間同士です。大切な日をどう過ごしたいかが違っても、不思議ではありません。 ちなみに、家族以外になると少し話は変わります。 会社の上司や同僚、友人知人が、理解や共感を持ってくれ、サポートをしてくれるわけではありません。 もし、心からの理解とサポートをしてくれる方がいれば、そうした人には本当の思いを伝えましょう。 そうでない方には「それらしい理由を付けて自分の意思を通す」ようにしましょう。 例えば、休む理由付けが必要であれば、「家族の死去から1年が経過するので休みたい」ではなく「体調不良で休みます」でよいでしょう。 理解や共感を持ってくれない人に、正面からぶつかっても傷つき消耗するだけです。 3.「節目」を意識しすぎず、感情と向き合う 命日が近くなるにつれ、「家族や大切な人が亡くなった日」「その日の出来事」を想起して、精神的に辛くなってしまう、感情的になってしまう方もいらっしゃいます。 「1年」という期間が経過したことにより、辛かったその日の出来事、亡くなった後の日々を思い出されてしまうためです。 そして、辛さだけでなく、以下のようなものを感じてしまうこともとても多いです。 「1年経過したのだから、そろそろ立ち直るでしょう」という周囲の目や期待 「1年経ったのだから、しっかりしないと」という自分自身が持ってしまう義務感 「1年経ったのに、精神的には辛くしんどいままだ」という辛い感情 あたかも、1年経ったら色々なことができるようになっている、いや、できるようになっていなければならない、という重圧がのしかかって来るかのようです。 しかし、1年というのは単なるカレンダー上の区切りでしかなく、心の回復度合いとは何も関係がありません。 そして、大切な人を失ったことについて「何をもって回復とするか」は人により異なります。 よって、1年経過したという事実と、「1年経ったのだから」という周囲の期待や自身の感情を結びつける必要はありません。 1年という節目をどれだけプレッシャーとして感じたとしても、プレッシャーを持つことで心の回復が進むわけではないのです。 2年目、3年目のことは考えず、今のことだけを考える 自死遺族の方からは、 もうすぐ1年経つのに、全く精神的に楽にならない。むしろ悪くなっている気がする。来年、再来年には回復しているのだろうか。 といった辛さを持つ方が多くいらっしゃいます。 しかし、筆者はこう思います。辛さを感じていること、考えること、不安に思うことこそが、ご自身が立ち向かっている証拠なのではないか、と。 人それぞれ命日をどう迎えるか、どういう心持ちかは違います。 心穏やかな人もいれば、そうでない方もいます。 しかし、現在の状況から連想して、将来への不安を増大させて、さらに辛くなる必要はありません。 来年、再来年のことを連想するのではなく、まずは直近の命日と自分の心にだけ向き合うようにしましょう。
自死遺族が遺品整理を行う5つのポイント | シンパス相談室
以前に、遺品整理を急かしてはいけないという記事を執筆しました。 自死遺族本人、または家族は間違った判断をしないために、また辛い状態なのに急かされて遺品整理に向かうことで精神状態を悪化させないために書いた記事です。 ただ、家族の自死からある程度時間が経過して「そろそろ遺品を整理したい」「立ち向かいたい」という気持ちが出てきた場合、何に気を付けて行えばよいのでしょうか。 今回は、自死遺族が遺品整理に立ち向かうに当たって、気を付けるべきポイントについてお伝えします。 1.1人でやらない まず、自死遺族の方は1人で遺品整理をしようと思わないことです。別な家族、または友人などにお願いして同席、または手伝ってもらうべきです。 一人で遺品整理をしようとすると、目の前にある遺品、つまり思い出が詰まった品々に心が持って行かれそうになります。良かった思い出、辛かった記憶が噴出し、感情の収集がつかなくなります。 もし遺品整理をするのが1人でなく、もう1人誰かがいれば、普段の会話をしながら、または遺品にまつわる思い出を聞いてもらいながら遺品整理に向かうことができます。辛い思い出を想起したとしても、「この遺品にはこういう辛い思い出があって、目にするのもしんどい」と話しながら遺品整理をすることで、心の中に全てをため込んでおかずに済みます。 「今更、遺品に関しての思いを口に出したところで何の意味があるのか」と思う方もいるかもしれませんが、口に出して思いを吐き出すというだけでも、十分に意味があります。そして、誰か聞いてくれる相手がいてくれないと思いを吐き出すのは難しいことなのです。 2.そこまで辛くない遺品から取り掛かる 遺品の中にも「向き合うのが大変に辛い品々」もあれば、「相対的に考えるとそこまで辛くない品々」もあります。自死遺族が最初に取り掛かるべきは、「そこまで辛くない品々」です。 遺品整理のはじめに、向き合うものが大変辛い品々に取り掛かってしまうことは、「心が受け入れられる状態になっていないのに、無理をすること」です。感情的に無理をした場合、その無理は長続きしないのです。遺品に向き合う辛さで、精神的・身体的にしんどくなって寝込んでしまうこともあります。そして、「遺品整理に取り掛かったが進められなかった」という挫折感、失敗体験だけが残ってしまう人もいます。 そうではなく、まずは「相対的に見てそこまで辛くない品々」、負荷が小さいものに取り掛かることで、小さな成功体験、「わずかながらとはいえ、遺品整理ができた」を積み上げていく必要があります。成功体験を積み重ねていくことで、より辛い思い出が含まれている品々に向かうことができます。 「辛い品々」は後回しにして、「そこまで辛くない品々」から取り掛かりましょう。 3.辛くなったら中断して、「そのうち」再開する 遺品整理は長期戦です。1日や数日で一気に片付けるべきものではありません。 よって、「辛くなったら中断する」「そして、『そのうち』再開する」と決めましょう。 遺品整理を始めたときには「大丈夫」と思えても、整理していくうちに辛くなることは一般的です。この状態で無理に遺品整理を続けることは、傷口が開いたままスポーツを続けるようなもので、心身の不調を招きかねません。 「辛い、しんどい、これ以上はやりたくない」と思ったら、中断する勇気を持ちましょう。同席してくれている方に対して「せっかく時間を割いて同席してくれたのに、進められず申し訳ない」という気持ちになるかもしれませんが、家族や友人への後ろめたさから無理に遺品整理を続けても良い結果となりません。 再開する日を決めずに『そのうち』とすることも大切です。「いつから再開する」と決めてしまうと、そこに縛られてしまいます。そして、決めた日に再開できなかった場合、失敗体験が積みあがってしまいます。 4.遺品整理に時間をかけても悪くないと信じる せっかく遺品整理を始める気になったのだから、一気にやらねば、と思う方は少なくありません。 特に、何年も遺品に近づけなかった方に顕著かもしれません。 しかし、遺品整理は「亡くなってから数年経ってから手を付け始めて、手を付け始めてから終わるまでにさらに何年もかかる」場合もあります。しかし、時間をかけることは悪いことではありません。 自分の心身の状態を見ながら「できそうな片付け」を少しずつ取り掛かればよいのです。他の人が短時間で終わらせているから、など比較する必要はありません。「早く遺品整理を終わらせること」がよいことではなく、「個々人が無理のないペースで終わらせること」がよい遺品整理です。 5.無理に捨てない 客観的に見れば、取っておいたところで使い道もない遺品はたくさんあります。いや、遺品の大半はそうしたものかもしれません。 だからといって、「心に無理をして多くのものを捨てる」必要はありません。スペース的に余裕があれば、「今のところはそのまましておいて、また後で取り掛かる時に考える」というように、判断を先送りにしてもよいのです。 無理に捨ててしまったものほど、後になって「あの時に捨てなければよかった」と後悔し、判断を悔やんでしまうことが多いのです。客観的に見れば、重要には見えない品々であってもです。 よって、心から納得するまでは無理に捨てない、「捨てない勇気」「先送りにする勇気」も必要です。 同席する家族・友人は「客観的な意見」を言わない 勇気を振り絞って遺品整理に取り掛かる自死遺族に同席する人は、何を心がければよいでしょうか。 大切なのは「客観的な意見」を言わないことです。 例えば。「どうみてもガラクタで、かさばって、再び利用できるものでもない遺品」があったとします。「客観的」に見れば、「場所を取るし、もう使うこともないので、優先的に処分すべき品」に見えたとしても、思ったままの客観的な感想・意見をすべきではありません。 遺品の一つ一つには、自死された方と自死遺族の思い出が詰まっています。それが良い思い出であれ、辛い思い出であれ、です。そして、どの品にどのような思い出が含まれているのかは、他人からは決して見えてきません。 よって、「客観的にはこう見えるから、こうしたほうがよい」といった意見をしないことが大切です。もし意見すれば、その意見が圧力となってしまいます。その圧力が故に、自死遺族は無理な判断をしてしまいがちです。 同席者がすべきなのは、自死遺族が一つ一つの遺品に向かい、あふれ出る思い出を口にしたときに、それに耳を傾け、辛さに共感することです。
自死遺族になってから友達に会えなくなった | シンパス相談室
自死遺族となってから、これまで親しくしてきた友人に会えなくなったという方は多くいらっしゃいます。今回は、友人に会えなくなったという点について考えてみたいと思います。 なぜ友人と会えなくなったのか 「辛い時こそ支え合うのが本当の友達」という言葉がありますが、自死遺族に関してはこれは当てはまる場合と、そうでない場合があります。それは、「自死遺族」が持つある種の特殊性から来ています。 (1)根掘り葉掘り聞かれる 自死遺族の友人の多くは、自死遺族がどのような思いをして毎日を過ごしているか、友人と会うのにどれだけ勇気を振り絞ってきたかについて、理解がありません。このため、一般的な「生活に起こる大変な出来事」と同じように、色々と事実を聞いて来ようとする場合があります。 誰が なぜ いつ どこで どのように どんな方法で 家族の自死に直面した自死遺族が、友人のペースで、いわゆる5W1Hに事実を聞かれて、それに答えねばならないのはある意味拷問です。 (2)意見される・批判される 物事を解決する方法を議論するのであれば、「これまでのやり方で良くなかった点を洗い出して改善する」ことが必要かもしれませんが、自死遺族の心の対処はビジネスではありません。 この点に配慮ができない友人が、「あなたがあの時こうしていればよかったののでは」「**が足りなかったのではないか」「**が良くなかったと思う」など、起こった事実について品評する、つまり間接的に批判された場合、自死遺族が再び辛い思いをします。辛い思いをしている中で、勇気を出してきたのに、なぜさらに辛い思いをしなければならないのか、と。 (3)的外れの励まし方をされる 以前、自死で失った人の代わりはいないのに、的外れの励まし方をされるという記事にも書いたのですが、自死遺族の辛さについて理解がない人は、的外れの励ましをして、さらに自死遺族を苦しめてしまいます。 多くの人は自死遺族となった苦しみを理解しているわけではない、また自死遺族となった友人に会うために、ことさらの準備をしてきているわけではないので、的外れの励まし方をされる確率はそう低くはないのです。 (4)幸せを「見せつけられる」気がする 友人にとって悪意は全くなくても、「自分が失ってしまった大切な人が、友人にはいる」というだけで、会いたくないと感じることがあります。 お子さんを亡くされた方が、お子さんが元気な友人に会う。 配偶者を亡くされた方が、配偶者が元気な友人に会う。 親御さんを亡くされた方が、親御さんが元気な友人に会う。 兄弟を亡くされた方が、兄弟が元気な友人に会う。 友人は、目の前で一生懸命話を聞いてくれている、嫌なことは一つも言わない。むしろ自分によく共感してくれる。しかし、とはいっても、自分は大切な人を失ったが、友人は失っていない。羨ましく思う。そして、そう思ってしまう自分が駄目だ、と思う。こうした気持ちを持つ人は少なくないのです。 また、家族以外についてもあります。 自分は辛く苦しい日々を過ごしているが、友人は元気そうにしている。 自分は仕事もままならない状況だが、友人は普通に仕事をしている。 自分はおしゃれする精神的な余裕もないが、友人はおしゃれして会いに来てくれている。 こうした精神的、物理的な余裕をみせつけられてしまうことも、会いたくないと思う理由になります。 (5)困らせたくない 今まで、友人とはよい関係できた。ただ、自死遺族となった自分と友人が相対して、「どのような言葉をかければよいのか」「どのような表情をすればよいのか」「何を言ってよくて、何を言ってはいけないのか」など、あれこれ考えさせるのは心苦しい。 また、自分と会ってしまうと、自分の「辛い、悲しい、悔しい」という話を聞くことになり、友人にとってのせっかくの時間が重苦しいものとなってしまう。申し訳ない。 こうした「友人に対する配慮」から、会いたくない、会わないほうがよいと考える方は多いです。 会っても大丈夫そうな友人とだけ会う まず、自死遺族となった人が「友人に会いたくない」と思う時、無理して友人に会う必要はありません。「大切な友人だから、会って何があったのかを伝えなければ」といった使命感から会う人もいますが、大変な辛さを伴うことがあります。自分の心に大きな負担をかけてまで、会う必要はないのです。 「この人なら会っても大丈夫」と思える人とだけ、「今なら会っても大丈夫」というタイミングで会えばよいのです。 人によって、友人と会う時に何を辛いと感じるかは異なります。 例えば、「子供を自死で失ったので、とにかく子供がいる友人には会いたくない」のであれば、「独身で子供がいない友人と会う」「結婚しているが、子供がいない友人と会う」のでよいのです。 「とにかく話を聞いてほしい。意見されたくない」という場合には、「徹底して聞き上手な友人と会う」のでよいのです。 失礼な言い方かもしれませんが、友人の属性や能力、性格によって「会う、会わない」の判断をしましょう。 新しい「友人」と会う 特に辛いうちは、これまでの友人とは一切会いたくないという方は少なくありません。そうした場合は、「自死遺族の分かち合いの会」などで知り合った方の中で、「この人なら大丈夫」という方と個人的に会うなど、これまでの友人とは全く別の新しい「友人」と会うようにするのも手です。 自分の過去について、ある意味「知りすぎている」友人と会うのは気が引けるが、過去についてほとんど知らない人であれば「自死遺族として苦しんでいる私」だけを見てくれるし、引け目も感じない。そう考える人は少ないありません。 なお、対面型のカウンセラーと会う、という方法もあります。自死遺族へのカウンセリング経験がある方であれば、会うことで傷つくという可能性は低いので、ある意味安心です。ただ、会っている時間はお金が発生しますし、その金額も安くはないので、「信頼できるカウンセラーがいて、ここぞという時の切り札として使う」くらいの頻度で利用するのがよいかと思います。頻繁に会っていると、多くの人にとっては金銭的に大変かと思います。
死にまつわるニュースに苦しむ自死遺族 | シンパス相談室
自死遺族になる前は、全く気にも留めなかったようなニュースにより苦しい思いをする方がいます。 今回は、ニュースをテーマにお伝えいたします。 なお、この記事により辛い思いを想起するかもしれない、と思われる方は、以下をお読みにならない方がよいかもしれません。ご注意頂ければと思います。 自死遺族を苦しめるニュース 自死遺族となる前と、なった後では「世界が一変したようだった」と語る方は少なくありません。 そして、毎日見るネットやテレビ、新聞のニュースにより強い感情が想起され、とても辛い思いをする方は非常に多いです。 有名人・著名人の自死のニュース 自死した家族と同じ方法で死亡された人のニュース 同じ年代の方が亡くなったニュース 自死した家族と関係のある土地の方が亡くなったニュース 同じ日付に亡くなったニュース 例えば、「家族が縊死という方法で自死された」場合、「カルト教団の教祖の絞首刑が執行されました」というニュースは強い感情を想起するニュースとなります。 また、「25歳の家族が自死された」場合、「25歳の方が交通事故で亡くなった」とニュースは強い感情を想起させるニュースになります。 このように、起こったニュースと、自身の家族の自死を関係づけて受け止めてしまい、苦しんでいる自死遺族は、とても多くいらっしゃいます。 関係ないと分かっていても、想起して苦しんでしまう 自死遺族のほとんどの方は、辛さそのものだけでなく、「直接関係ない『死』のニュースと、自分が愛する人が自死したことを結び付け、苦しんでいる自分」そのものに苦しんでいらっしゃいます。 直接関係ない死と、家族の自死を関連づけたい理由はありません。むしろ、一切関係ないものとして認識できれば、苦しみを想起せずに済むのです。 しかし、自然と関連付けてしまう、想起してしまう、苦しみを感じてしまうことを防ぐ方法はないのが実情です。 (外からの情報について完全に身を守る方法はないのは、救急車反応と同じです) そして、単に苦しさを感じるだけではありません。 「安定した気持ちで過ごしていたのに、ニュースを知ってしまったために、突然苦しみが想起された。結果、その日は以後、何も手につかなくなってしまった」というように、日常が突然中断させられ何もできなくなる場合もあります。 物事が中断させられることにより、生活や仕事に支障をきたしてしまうこととなります。 「関係ない」と指摘するのでなく、「関係ないのに想起してしまい辛い」気持ちに寄り添う ニュースから家族の自死を想起して辛い思いをしている自死遺族に対して、「ニュースはあなたとは何も関係がない」と指摘してもあまり意味がありません。 それを一番よくわかっているのは、苦しんでいる自死遺族だからです。 よって支える家族としては、「関係ない」と指摘するのではなく、「関係ないと分かっているのに、辛い思いを想起してしまう苦しみ」に共感して寄り添ってみてはいかがでしょうか。 なお、気持ちに寄り添ったからといって、自死遺族の辛さがなくなるわけではありません。 苦しみに寄り添うのは、あくまで「今の辛さを少しでも緩和するため」であり、「辛さの根本治癒」ができるわけではありません。 こうしたニュースに接しても辛さが和らぐようになるには、ある程度の時間が必要です。 さらには、辛さを想起しないようにする本人の意思の持ちよう、努力が合わせて必要になることもあります。 寄り添うことによる効果を過信することはできません。 しかし、周囲の家族には寄り添うことしかできない場面も多くあります。 とはいえ、寄り添ってくれる家族や愛する人がいるのといないのでは、もちろんいる方がよいわけです。 こうした状況では、支える家族は「寄り添って共感する」という行為を過信せず、かといって過小評価もせずに、寄り添って支えるという小さな努力を続けましょう。
自死遺族のTwitter利用のすすめ | シンパス相談室
親しい人が自死したことにより、大変な辛さを感じているが、家族や他人にこの辛さを言えない、話す意欲すらない。ただ、言葉にできないことにより心の重しが強まっていることも分かっている。 そんな方は、Twitterを使って心の内を吐き出してみるのも手です。 (ちなみに当サイトはこちらのTwitterアカウントを利用しております。ご興味ありましたらフォローください。) Twitterのすすめ 自死遺族にとって、Twitterの良い点を以下でご説明します。 140字の短文投稿=ブログを書くほどのエネルギーがいらない Twitterのメリットは全角140字という短さです。 自死遺族となってから、自分が感じること、辛さ、苦しさ、後悔などをまとめてブログに書きたい、胸の内をさらけ出したいという方は少なくありません。 しかし、自死遺族となったことによる辛さがあまりに大きいため、感じたことを網羅的に長文で書くだけのエネルギーを持てない方が多いのです。 しかし、Twitterは最大でも全角140字です。少ない文字数で投稿しても問題ありませんし、「辛い」という一言だけでもいいのです。 エネルギーが消耗しているときに、たくさんのエネルギーを使わずに投稿ができるのは、Twitterの大きな強みです。 スマホから利用可能=どんな姿勢でも利用できる 自死遺族の方が、肉体的、精神的に疲れ果てていて、ベッドに横になっていても、スマホからTwitterで投稿できるのがよいところです。 どのような状況でも、どのような姿勢でも、思いを吐き出したい、誰か見知らぬ人が読んでもらいたい。そう思ったときに最小限のエネルギーでも使えます。 これに対して、ブログは長文になるほどパソコンで入力する方が多いので、起き上がった姿勢でパソコンに向き合わねばなりません。 Twitterと比べると、若干ハードルが高いです。 匿名性が守られる そして、Twitterが良いのは匿名であることです。 匿名だからこそ、誰に気兼ねすることなく心の中の感情をそのまま出すことができます。家族、友人、知人、親戚などの目を気にすることはありません。 自死遺族となってからは、周囲にどれくらいの深さで自死についての話をすればよいか迷ってしまう方はとても多いです。そして、こうした迷いを持つこと自体も自死遺族を苦しめる材料になってしまいます。 Twitterであれば、誰に気にすることなく、自分の心の赴くままに投稿できます。それが倫理的に反していることであっても、とがめられることはまずありません。 他のユーザーとの交流 Twitterで自死に関連するキーワードを探せば、同じ自死遺族としての辛さを持っている方が大勢います。そして、ほとんどの方は匿名で投稿しています。 Twitterで似た境遇にいる人を見かけると、「自分は今、近しい人を失ってとても辛い思いをしているが、辛い思いをしているのは自分だけではない」ということを。実感を持って理解することができます。 もちろん、自分以外にそうした辛さと共に生きている人が大勢いることは分かっています。しかし、日々の苦しみ、辛さを切々と投稿する方がいるからこそ、「自分は一人ではない」「自分だけが苦しんでいるわけではない」と思えるのです。 また、自分の投稿に対して、他の自死遺族から反応があることもあります。そうすることで、人生でこれまで一度も接点がなく、一度もあったことがない、そして今後も会うことがないだろう人たちと、励まし合うことができます。 自死遺族がTwitterを使う注意点 自死遺族がTwitterを利用する上で注意しなければならないのは2点です。 言葉の暴力を受ける可能性がある Twitter上には、例えば「自死遺族」といったキーワードで検索して、見知らぬ人に対してけんかを売るような言葉を投稿するユーザーもいます。 こうしたユーザーがいるから、言葉の暴力を受けるのが怖いから、Twitterを利用したくないという方も多いかと思います。 これを防ぐには、アカウントを鍵をかける(承認しないと投稿内容を見られなくする)方法がありますが、これだとほとんど交流できません。 よって、交流もしつつ、言葉の暴力を最小限にする現実的な方法は、「暴言を吐かれたら、すぐに攻撃的なアカウントをブロックする」です。 暴言を受ける可能性があるのは残念ですが、「自死遺族」というキーワードで活発に攻撃的になるアカウントはほぼいません。 ほとんどのユーザーは、自分の辛さを語りたい、辛さを共有できる人たちと匿名で交流したい、というものです。 特定のユーザーに依存してしまう 自分と同じ境遇だった、頻繁にレスをくれる、投稿内容がよく共感できる。 こうしたユーザーに対して一方的に入れこんでしまう、別な言い方をすると「依存してしまう」「幻想を見てしまう」方がいます。 特定のユーザーのコメントに頻繁に返信したり、コメントを求めたり、直接会うことを要求する、DM(メッセージ機能)を何度も送ったりすると、相手は不快感を感じる場合があります。 そして、不快感を感じた相手はあなたをブロックする可能性すらあります。 信頼できる人だと一方的に思っていたが、ブロックされたりすると非常に悲しく成ったり、精神的に不安定になる。また「裏切られた」という感情が出て、怒りが表出することもあります。 他のユーザーとは、近すぎず、遠すぎずの距離感を保つ Twitterを利用している自死遺族の方を拝見すると、あくまで「自分の辛さを出す場所」として使っている方が多いです。 他の自死遺族の交流よりも先に、自分の辛さを出す場所として価値を見出しています。 ゆえに、Twitter自体、他のユーザーとよい距離感を持って利用されているなと思うことが多いです。 また、「自分の発言に対して返信を求めない」「特定の人に対してばかりコメントしない」「意見が違う人がいても反論せずスルーできている」方が多いと感じます。 これまでTwitterを利用されてこなかった方は、まずは自分の思いを出す場として使い、それから徐々に他の自死遺族の意見を確認したり、コメントしていくのがよいかと思います。 Twitterが、多くの自死遺族のとって、少しでも辛さを癒すツールとなることを祈っております。
自死遺族の救急車反応を理解する | シンパス相談室
自死遺族が苦しむ反応、フラッシュバックの一つとして、命日反応がありますが、これに似た反応のひとつに救急車反応があります。 救急車のサイレン音が近づくと平静でいられない 同居している家族が、自宅で自死された場合、自死した日の記憶は鮮明に残ることが多いです。 ただ、自死したときの状況や言葉のやり取りが、後日そのまま再現されることはありません。 しかし、自死した家族を発見した後で119番連絡し、その後サイレンを鳴らして駆けつけてきた救急車の音を聞くと、「家族が自死した日のことを鮮明に思い出してしまい辛い」という方は多くいます。 救急車の甲高いサイレン音は、傍で聞いていてもかなりの大音量、そして特徴的な音です。 これを自宅の前で大きな音で鳴らされることにより、家族が自死した日の記憶とサイレン音が強く結びつきます。 このため、「街角でたまたま救急車に遭遇したとき」や、「自宅の前をたまたま救急車が通過したとき」に、「自死の日の辛い記憶が思い出され、悲しくて仕方なくなる」「叫びたくなってしまう」「恐怖を感じる」のです。 サイレン音から身を守る方法はありません 家族が自死したときの記憶を思い出して辛い時には、「家族が亡くなった部屋には入らない」「遺品整理は後回しにする」「特に心身消耗している家族に対しては言葉を選んで話をする」といった対応ができます。 サイレン音が大変なのは、対策のしようがないことです。 自宅前を通る救急車だったり、街角を通る救急車に「サイレン音を消してください」とお願いすることはできません。 サイレン音があまりに辛いからと言って、イヤーマフや耳栓をつけて生活するわけにもいきません。 もちろん、もし自宅にいるときにサイレン音が聞こえてきたら、すぐにイヤーマフや耳栓をする、外の音が聞こえにくい部屋に移動するという緩和策はあります。ただ、全く聞こえないようにするのは難しいです。 「少し平穏な日々を過ごしたと思ったら、サイレン音が聞こえたことで、再び自死の記憶が鮮明に思い出されて辛い。そしてこれを防ぐ方法もない」と、自死遺族は落ち込んでしまいがちです。 救急車のサイレン音を辛く思うことを理解・共感する サイレン音が辛いと感じている自死遺族の多くは、「たかがサイレン音なのに、これを辛いと思ってしまう自分のことが嫌になる」という方は少なくありません。 論理的には「今聞こえてきたサイレン音と、自分の家族の自死とは何も関係がない」と思えたとしても、沸き上がる感情は論理を超えて押し迫ってきます。 自死遺族を支える家族がすべきなのは、この辛さを否定しないことです。 ・「たかがサイレン音でしょ」 ・「このサイレン音と、家族の自死は全く別なのだから気にすることはない」 ・「いつまでサイレン音が辛いとか言っているんだ」 ・「もっと気を強く持って」 こうした発言は、自死遺族が感じる辛さを否定し、頑張りが足りないから辛く思えるのだと指摘するものです。 自死遺族の方は、既にもう頑張りすぎるほど、頑張っています。それでもサイレン音が辛いのです。 支える側の自死遺族がすべきなのは、辛さを認めて、理解・共感することです。 ・「あの日のことが想起されて辛いよね」 ・「サイレン音を聞くと感情が揺れ動くのは、どれだけ大変なことかと思う」 ・「あんな大きなサイレン音を鳴らすことないのにね」 そして感謝の言葉を付け加えてみてはいかがでしょうか。 ・「そんな中、毎日頑張って生きてくれてありがとう」 ・「日々立ち向かってくれているから、家族一緒に過ごすことができているよ」 サイレン音による大変な辛さは、必ず乗り越えられます。 特に辛いご家族が、「今、家の前を通りすぎた救急車からサイレン音が聞こえたが、この音と家族の自死のとは関係ない」と思える日が来ます。 このためには、サイレン音に対する辛さを否定せず、理解・共感すること、そして長い目で暖かく見守ることが必要です。