愛する人の自死に向き合うことは辛すぎる。よって、「心にふたをして過ごす」多くいます。
今回は、心にふたをすることの意味について考えてみたいと思います。
愛する人の自死にふたをするとは
愛する人が突然自死でいなくなってしまった。人生において最大の悲しみの一つであるこの瞬間に、多くの人は「何故自死してしまったのか」「どうすれば防げたのか」「自分の何が悪かったのだろうか」「どれだけ苦しかったのだろうか」など、自死した愛する人について、自分との関係性について、自死の状況について深く思いを馳せます。
しかし、自死に関して別の向き合い方があります。それは、「心にふたをして過ごす」ことです。
1.辛すぎる
自死に関してふたをする理由の一つは「辛すぎる」からです。
愛する人が突然いなくなったことの悲しみ、後悔、怒りといった感情をそのまま受け止めること、そして心を掘り下げていく作業を行うには精神的に耐えられない。だから、今は「心にふたをする」ということです。
2.他に守るべきものがある
子供だったり、経営する会社だったり、自身のキャリアだったりなど、「今後の人生を考えると、今は別なことを守らねばならない」という状況はあります。
特に、配偶者を亡くした夫や妻は、収入を得つつ残された子供を育てていかねばなりません。
そうなると、「自死の悲しみは後回しにして、今置かれた状況を何とかしないと」と「自死に向き合うことを後回しにする」ことはよくあります。
自死について考えることを後回しにして、時間が経過しても、悲しみや辛さがなくなるわけではない
強い感情で長い時間経過すると、感情は穏やかなものに変化します。
しかしそれは、「ある一定期間、長い時間を取って、自死について自分の感情に向き合って辛い思いをそのまま受け止めて苦しんだ」後の話です。
「自死と向き合うことを、諸事情から後回し」にした場合、愛する人の自死に関する感情は穏やかにはなりません。
例えば、何十年後になって自死に関してのふたを少し開けただけで、自死が起こった当時と同じだけの質量の感情が湧き出てきます。
私が尊敬するミュージシャンに、ロックバンド「X Japan」のリーダー、Yoshikiさんがいます。
Yoshikiさんは11歳の時に父親を自死で亡くしています。
Yoshikiさんの自伝によると、葬儀の後からは家族は何もなかったように過ごすことになり、自死について語られることがなかったとあります。
このような状況下、つまり自死について正面から向き合える状況がなかったため、Yoshikiさんは、自死によって生まれた強い感情を音楽に向けることで「生き延びた」のだと思います。
しかし、父の自死に向き合うことを状況的に許されなかったYoshikiさんは、50歳を過ぎた今でも、インタビューで父親の自死について語る時に涙を流しています。
Yoshikiさんの中には、お父さんが亡くなったときの強い感情がそのまま心の中にあるのではないかと思います。
11歳の少年が、父の自死について語る場がなかった、そしてその強い感情を別な形で発散した結果、X Japanの音楽が生まれました。しかし、幼いYoshikiさんの心境を思うと、なんと悲しく辛いことだろうと思います。
後回しにしてもいい。でもいつかは向き合う時が来る
もし、自死に対する悲しみや怒りにそのまま向き合うことができる、同じ立場の家族と語り合えることができる(その余裕がある)のであれば、ぜひそうするべきです。
しかし、状況がそれを許さない場合は、後回しにしてもよいのだと私は思います。
ただ、愛する人の自死について深く思いをはせること、強い感情と向き合うことは永遠に避けられるわけではないのもまた事実です。
永遠に向き合わないようにすると、いつまでも強い感情をふたをしている状態が続くこととなり、何かの拍子で感情が噴出する、つまり感情のコントロールが難しくなります。
多くの人にとって、感情をうまくコントロールしにくいのは、大変生きにくいことです。
よって、「今は向き合わない」と決めたとしても、「いつかは向き合う」という自負を持って日々を過ごしてはいかがでしょうか。
自死に関して向き合うことは辛く悲しく怒りたくなることですが、「向き合わない」よりも「向き合う」ことが不幸ではない、と私は信じています。
向き合うからこそ得られるものもたくさんあるのです。