悲しい、苦しい問いだと分かっているが繰り返し考えてしまう
大変に悲しいことですが、自死により亡くした人は、いくら努力しても戻ってきません。
しかし、「どうすればこの自死を防ぐことができたのか」という問いを、何度も繰り返し考えてしまう自死遺族の方は少なくありません。
もちろん、自死遺族の方は、こうした問いを繰り返しても愛する人が戻ってくるわけではないことは、分かっています。
また、「どうすれば防げたのか」という問いを繰り返すことで、「防げなかった自分」に対する自責の念を強める、つまり考えれば考えるほど辛い思いになることは分かっています。
そして、こうした辛い場面に直面した家族や友人は、
「そうしたことを考えても愛する人は戻ってこない」
「考えれば考えるほど辛くなるだけ」
「愛する人は亡くなっても人生は続く。考えずに済むようになるといいね」
などといってしまう場合があります。
しかし、こうした回答は全て間違いです。
悲しい、苦しい問いだが、避けられない、避けるべきでない問い
命が戻ってくるわけではないのに、「どうすれば防げたのか」について考えるのは意味がないのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
「どうすれば防げたのか」という問いを何度繰り返しても、納得のいく回答はありませんし、自責の念が増すことも多いでしょう。
しかし、こうした問いを繰り返すことは、自死遺族にとって避けられない過程なのです。
考えれば考えるほど辛い、考えれば考えるほど過去の自分を呪いたくなる、過去の不作為を恨めしく思う、それが「どうすれば防げたのか」という問いです。
しかし、愛する人との関係、その時の状況、自分ができたこと、できなかったことなどを、ひたすら洗い出して考えることこそ、愛する人の自死から逃げずに直面している証拠です。
愛している人を失ったから苦しい、その責任の一端が自分にあるかもしれないと思うともっと苦しい、でも繰り返し、繰り返し考える。
考えてもすっきりする回答が出ることはない。それでも考える。繰り返し考える。苦しい。辛い。
こうしたことを繰り返していると、起きているときも、寝て夢を見ているときも「どうすれば防げたのか」と考えていることさえあります。
しかし、「どうすれば防げたのか」という問いに逃げずに直面して考え続けているということは、愛する人の自死を受け入れて、その後の人生を歩んでいく第一歩です。
答えの出ない問い、どれだけ考えても変わらない現実に直面して苦しんだからこそ、自分なりの理解、受容が生まれるのだと私は思います。
考えることを否定しない。話を聞く。ただ体調には気を配る
自死遺族で最もダメージを受けた方を支える家族には何が必要でしょうか。
大切なのは、「否定せず話を聞く」ことです。
考えても考えても変わらない現実、それでも考えてしまうということについて、否定したり、別な行動を促したりするのではなく、話を聞いて共感しましょう。
いつ、どのような状況を振り返って、どのような感情が生まれているのか、その思いをどのように受け止めているのか、どのように辛く感じているのかです。
話を聞く際には、「自分だったらどう感じるか」ではなく、「相手の感情を再現して、相手と同じように感情を動かして感じる」ことが大切です。
決して自分の尺度で、相手の辛さや苦しみを測ってはいけません。
自分は辛くない、自分はこう考える、自分はこう解釈した、こうすればよい、といった「自分目線」の話や行動を促すことは何の役にも立ちません。
ただじっと、辛い話を聞き、共感しましょう。
唯一気を付けて欲しいのは、「どうすれば防げたのか」という問いに苛まれて精神のバランスを崩したり、極端に食べなくなっている場合です。
精神のバランスを大幅に崩すのであれば、考えることをやめるのではなく、投薬などで「一時休止」することも必要になるかもしれません。
また、食べなくなっている場合は肉体的な健康を損ねるので、一緒に食事をとるなど、食べさせる手助けを行いましょう。