自死遺族・支えるあなたを、支える
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自死した人に対する怒りがあるなら、我慢せず出すべき | シンパス相談室

自死遺族は、悲しみと後悔だけに打ちひしがれているわけではありません。自分、または自分たちを残して自死したことに関して強い怒りを感じることもあります。 今回は怒りがテーマです。     自死遺族はなぜ自死した人に怒るのか 家族や近親者が亡くなった際に、怒りが表出するとはどういうことなのでしょうか。 これはいくつかの原因に分けられると思います。   1.精神的・肉体的な辛さ 「愛する人が自死」した場合であっても、「愛する人でない近親者が自死」した場合であっても、自死によって大きく感情が動きます。 これまで行えていたことが行えなくなったり、夜眠れなくなったり、精神的に強い圧迫を感じたり、体調不良が続いたり、といったことが起こります。 「自死するのは一瞬だが、なぜ自分は精神的、肉体的にこれほど長期間、辛い目に遭わされるのか」と思っても不思議はありません。   2.経済的な困難 例えば、働きに出ている旦那さんが自死して、専業主婦と子供が残されたとしましょう。 旦那さんの自死によって、専業主婦の奥さんと、子供の人生は大きな変化を余儀なくされます。 特に、実家を頼れない場合、奥さんは働きに出なければならないが、旦那さんが稼いでいただけの収入を得ることは難しいことが多いです。 そうなると、子供の進学といった進路にも大きな影響を及ぼします。 諦めることも多くなるでしょう。 さらに、家賃が払えなくなり今住んでいる家や地域から離れなければならないこともあるでしょう。 「精神的、肉体的に辛いだけでなく、なぜ経済的にも追い込むようなことをしてくれたのか」と怒りを覚えることは、ある意味当然といってよいかもしれません。   3.不当な攻撃による被害 夫が亡くなった場合は、残された妻に対する夫の両親からの攻撃で、 逆に妻が亡くなった場合は、残された夫に対する妻の両親からの攻撃が分かりやすい例です。 「愛する息子(娘)が自死を選んだのは、配偶者であるあなたのせいだ」と攻撃してきます。 精神的、肉体的、または経済的に疲弊している人に対して、さらなる圧迫を加えてくるのです。 単に電話で攻撃してくるだけならまだしも、家に押し掛けてきたり、訴えるぞと脅したり、遺産をよこせと圧力をかけてくるなど、ただでさえしんどい状況をさらにしんどくします。 「なぜ、私を思いやる遺書を残すなどして、私を義理の両親から守ってくれなかったのか」という強い怒りを感じても不思議ではありません。     自死遺族の怒りを許容しない人と触れ合わない こうした怒りに対して、「亡くなった人に対してそういう感情を持つこと自体間違っている」「死人に鞭を打つようなものだ」「怒りを収めてあげて」というように言ってくる人がいます。 これは、一見正論のようにも見えますが、自死遺族に対して「怒りを我慢しろ」「感情を押し込めろ」「怒りを出すな」といっていることです。 ただでさえ、はち切れそうな感情の人に対して、建前上の正論、倫理を並べて、さらに我慢をしろというわけです。 この裏には、「怒りを出すのはよくない」といった建前に加えて、「こうした怒りを出されても自分はどう対処していいか分からない」「面倒だから対処したくない」「真剣に向き合うと時間もエネルギーが取られて大変そう」という思いが隠れています。   平時においては、「怒ることはよくない」というのは倫理的かもしれません。 しかし、火事場において「怒りを出さないと生きていられない」人に対して、「怒ることはよくない」ということは何の救いにもなっていません。 むしろ、「この人も一般的なことを言って逃げるだけで、私の感情に向き合ってくれないのか」と失望を深めるだけです。 火事場において平時の倫理を問う人は、本当にその人のことを考えていない、本当に意味で倫理的な人ではないのです。 こうした人たちと触れ合うことは、結果として我慢を強要するよう仕向けられるだけなので、精神をすり減らします。 もし身の回りに、我慢を強要する人がいたら、接触を減らしたほうがよいでしょう。     怒りを出すことは大切 自死した人に対して怒りがあるなら、ちゃんと怒りを出す場を作りましょう。 おそらく、身を焼き尽くすのではないか、というくらいの怒りがあるはずです。 怒りを聞いてくれる親族、友人、カウンセラーに「自分はなぜ怒っているか」を口に出して話しましょう。 そして、聞く方は「平時の倫理」を問うのではなく、「怒りを受けとめて、どれほど深い怒りなのか、自分の中で感情を再現」してみましょう。 そして「あなたがどれだけ辛い思いをしているか」を共感とともに言葉で伝えましょう。   自分が自死遺族となって、最後に残る感情が「怒り」だった、という人も少なくありません。 しかし、「怒るなんておかしい」「怒りを自分で消化しないと」と、内なる感情を否定すると、自分で自分を追い込むことにつながります。 怒ってもいいのです。怒りをちゃんと出して、聞いてもらいましょう。 それが、身を焼き尽くす怒りを乗り越える第一歩です。

自死した人に対する怒りがあるなら、抑えなくていい

「過労による自死は自己責任」論 | シンパス相談室

定期的に浮上してネット上で語られる「過労による自死は自己責任」論についてです。自己責任論の多くは本質から外れた話なのではないか、と思ったので、「自死遺族を支える」という本サイトのテーマからは少し脱線しますが書いてみました。     私自身の話 個人的な話をさせていただきます。 新卒で入社した会社は有名な外資系IT企業で、定期的なリストラはあるものの、給料もよく、働き方も自由で、いわゆるホワイト企業に属していたのではないかと思います。 しかし、部署によっては日本企業から転職してきた中途採用者が持ち込んだ体育会系のカルチャーがあり、そうしたカルチャーと全く合わなかった私は、自分自身が職種に適性がなかったこともあり、精神的に追い込まれていきました。 今振り返れば、その時点で病院に行くべきだったのですが、当時はまだ一般的でなかったSSRIを個人輸入して毎日服用して、「会社に行きたくない。明日世界が終わらないものか。乗ったら必ず墜落する飛行機はないものか」などと思い、日々をやり過ごしていました。 あの当時に自分を追い込んでいたのは、視野狭窄(しやきょうさく)です。 今思えば、「会社辞めて転職すればいい」「辞めても失業保険も生活保護もある」「当座戻ることができる実家もある」「誰か守るべき人がいるわけでもない(当時独身)」と思えるのですが、その時は「辛い会社に毎日通う」か「生きることをやめるか」しかなかったように思います。 この頃の私の状況を的確に表しているのが、こちらの「しお」さんのTweetです。 「死ぬくらいなら辞めれば」ができない理由 1/2 むかーしの体験談と、そのとき思ったこと。よければ拡散してください。 pic.twitter.com/tImNNIOG56 — しお(汐街コナ)@「死ぬ辞め」発売中 (@sodium) October 25, 2016 「死ぬくらいなら辞めれば」ができない理由 2/2 イジメで自殺するような子も同じような状況に陥ってると思います。 洗脳前に動くのが大事だ!洗脳されかかってたらとにかく寝るのが大事だ! pic.twitter.com/dzqLFZB8Db — しお(汐街コナ)@「死ぬ辞め」発売中 (@sodium) October 25, 2016 私自身はその後、「まあどうなってもいいや」と吹っ切れて、その部署では低評価を食らってリストラに遭遇するも、運よく別な部署に行って食所を変更したら高く評価されて生き延びました。 何故、吹っ切ることができたか、それは「単なる偶然」です。自分の努力によるものではなかったです。     視野狭窄に陥った人に対する言葉の暴力 今振り返って思うのは、自分が生き延びたのは「単なる偶然」であり、よほど神経が図太い人、家や自身に資産がある人、自己肯定感が非常に高い人以外は「視野狭窄による自死の危険」から逃れられないのではないか、ということです。 ホワイト企業にいた私でさえ、思い詰めて視野狭窄になってしまうのですから、拘束時間が長く、休暇が取りにくく、ある種の洗脳(辞める奴は負け犬だ、的な考え)を行っているようなブラック企業であれば尚更、視野狭窄になりやすいでしょう。 ごく一部の人を除くと、この視野狭窄に陥る危険はあらゆる所にあります。視野狭窄に陥る危険から完全に逃れることはできないのです。   視野狭窄に陥ったら、何かしらのキッカケによってうまく抜けられる場合もあれば、抜けることが出来ず自死を選んでしまったり、心身のバランスを崩してしまう場合もあります。 こうした理解なしに、自死をしてしまった人や、心身のバランスを崩してしまった人に対して「自己責任」「弱い」などということは、言葉の暴力です。 (話はそれますが、自死遺族に対して「家族の自死から立ち直れないなんて弱い」という言動も、視野狭窄とは違いますが暴力であることに変わりありません)     攻撃的な言説を見ない、読まない 自死や自死遺族に関して、ネットで見たり読んだり、また同じ経験を持つ人たちが痛みを分かち合うことは素晴らしいことです。 しかし、ネット上には自死や自死遺族に関して攻撃的な言説が多く転がっています。 攻撃的な言説に賛成する人と、反対する人が相互に炎上していることもよくあります。 こうした言説を読んで、考えて、思い悩んで心を痛めるのは、大変にもったいないことです。 自死や自死遺族を攻撃する人は、これまでも多くいましたし、今後も多くいるからです。決していなくなりません。 いくら反論したところで、他人の思想は変えられません。   大切なのは、こうした言説は見ない、読まないことです。 あなたの人生には全く接点のない人、生涯会うことのない人が、あなたを含む集団を貶める文章を書いて、それで傷ついたとしたら大変にもったいないことです。 攻撃的な言説を書き連ねる人に、あなたの痛みは絶対に伝わりません。むしろ、さらに貶める材料にしかなりません。 ネット上にいる「あなたの痛みが理解でき、かつ攻撃的な言説を読んでも傷つかない誰か」が反論してくれることでしょう。   自身を傷つけるような言説にあえて近づくのは、誰も勧めていないのに、自ら毒を飲みにいくようなものです。 自死遺族の方は、自らの精神と肉体の安定を保つことが最も大切です。 あえて、精神と肉体を害するものには近づかないでください。

「過労による自死は自己責任」論

自死遺族に対する「しっかりしなきゃ」という暴力 | シンパス相談室

自死遺族は、理解のない人から「こんな時こそ、お母さんなんだからしっかりしなきゃ」「ご家族を支えるためにしっかりしてくださいね」など、「しっかりしなきゃ」と言われることがあります。 これは、控えめに言っても善意の形を借りた言葉の暴力といってもよいものだと思います。   「しっかりする」とは何か? そもそも、しっかりする、とは何でしょうか。 まず、「しっかりしなきゃ」という発言をする人は、実際の所、そこまで深く考えずに「激励」の意味を込めて発言しているのだと思います。 (深く考えたら、「しっかりしなきゃ」などと言えるはずがありません) あえて「しっかりしなきゃ」を分解すると、「愛する人の自死に直面してもなお、配偶者、子供、親族など支えるべき人を支えていられるように、強くあれ。落ち込むな」ということでしょうか。   しかし、多くの自死遺族は、人生において最も辛い日々を過ごしているわけです。 しっかりしなきゃ、とは「人生において最も辛い状況にある人に対して、『強くあれ、落ち込むな』ということ」だと考えると、あまりに残酷で理解がないと言ってよいかと思います。 うつ病の人に対して、「頑張れ」というのと同じくらい残酷な言葉の暴力です。   よって、自死遺族は誰かから「しっかりしなきゃ」などと言われても気にする必要はありません。 もし「しっかりしなきゃ」という人がいれば、その人は頼れない人、悲しみや嘆きを聞く気がない人、無理解のまま言葉の暴力を気軽に言う人だとラベリングしてよいかと思います。 頼れない人は、最も辛い時期に会ったり話をしたりすべき相手ではありません。     自死遺族は言われなくても、しっかりしなきゃと思っている 家族のために、自分のために、思うような毎日を過ごし、「しっかりしなきゃ」と思っているのは、他でもない自死遺族本人です。 しかし、「しっかりしなきゃ」と思うだけで精神が立ち直る、強い感情をやり過ごせるほど自死遺族の悲しみは浅くありません。 「しっかりしなきゃ」と思えば思うほど、悲しみの底にいて活動的になれない自分との落差に苦しむことになります。 感情を押し殺して、しっかりしているように見えたとしても、それは感情にふたをしているだけです。   よって、必要なのは共感と傾聴です(このサイトの最重要キーワードです)。 支える人は、悲しみの底にいる人に「自分は同じ経験をしたわけではない。でも、もし立場が逆だったらどんな感情になるだろう」と考え、心を動かし、悲しみの大きさを感じ、理解することが必要です。 感じて、理解したうえで、その感情を言葉にしてみましょう。 間違っても、安易な激励や励ましをすべきではありません。     しっかりしなくていい 悲しみ、苦しみ、後悔、怒りといった感情を抑え込む必要はありません。 しっかりしなきゃ、という名のもとに感情を押し殺すと、強い感情が慢性化してしまいます。 一番辛い時期は、しっかりすることではなく、荒波にようにやって来る「強い感情」に向き合うだけで十分です。 しっかりしなくていいです。いや、逆に、しっかりしようと頑張りすぎてはいけません。   支える側の家族からすると、しっかりしなくてもよい状況を作ってあげられるのが最良です。 長い時間を一緒に過ごして話を聞いて共感するとともに、生活面に関する不安をできるだけ取り除いてあげることです。 もちろん、完璧にはできません。経済的な不安があったり、逆に一緒に過ごす時間が限られたりします。 同居している家族、同居していない家族、信頼できる友人、カウンセラーなど、使えるリソースはフル動員して、不安が少ない状況をつくって「しっかりしなきゃ、なんて思わなくてもいい」と言ってあげられるとよいですね。 全ての自死遺族と支えるご家族をいつも応援しています。

自死遺族に対する「しっかりしなきゃ」という暴力

自死で失った人の代わりはいないのに、的外れの励まし方をされる | シンパス相談室

自死遺族を励まそうとする人の一部は、知識不足のため、悪意はないが見当違いの励まし方をしてしまうことがあります。 これは、自死遺族をさらに傷つけることにつながりかねません。   「あなたには何々があるから」という励まし方は逆効果 愛する人を失って強い衝撃を受けた自死遺族にとって、亡くなった人を別な人やもので埋め合わせることはできません。 「リンゴがないから、みかんを食べればよい」とはなりません。 しかし、この論法で「あなたは全てを失ったわけではない。何故なら何々があるじゃない」という励ましをしてくる方はかなり多いのです。 例えば、配偶者を亡くした人に「苦しいのはよくわかる。でも、あなたには子供がいる」と励ましたり、 息子を亡くした人に「息子さんが亡くなったのは悲しいことだ。でも、あなたには元気な娘さんがいる」と励ますようなものです。   こうした励まし方をする人が言いたいことは、 「あなたは全てを失ったわけではない。幸せを感じることができる要素を持っている。だから、生涯絶望の中にいるわけではない。大丈夫」 といった内容です。   しかし、配偶者を亡くした人が、子供が生きているからと言ってその悲しみを埋め合わせることができるのでしょうか。 息子を亡くした人が、娘が生きているからと言って無念さは減るのでしょうか。 母親を亡くした人が、父親が生きているからと言って辛さを感じずに済むのでしょうか。 答えはノーです。   子供が生きていても、配偶者を亡くしたことの悲しみは減りません。 娘が生きているからと言って、息子を亡くした無念さは変わりません。 父親が生きていても、母親を亡くした辛さが和らぐわけではないのです。   こう書き出してみると、全く励ましになっていないどころか、自死遺族の辛い感情に向き合っていないことがすぐわかります。 あたかも、「悲しい」「辛い」「悔しい」といった感情を取り扱いたくないから、妙な励まし方でポジティブなムードを出して、自己満足しているかのようです。 しかし、意識せずにこの手の励まし方をする人は多いのです。     相手の感情に一緒に浸る 自死遺族となった家族、親族、友人がいる人は、「下手な励まし方」は無意味なだけでなく逆効果であることを知っておきましょう。 「何々がまだ残されているから、いいじゃない」といった発言は、「自分の悲しい、辛いといった感情には目を向けてくれないのか」と思わせ、自死遺族を傷つけます。   色々と意見はあるでしょうが、自死遺族を支える時に、妙に話の方向性をポジティブにする必要はないと私は思います。 話の方向性をポジティブにして、何となく前向きな話としてまとめたところで、自死遺族はそんな薄っぺらいものでは覆いきれない悲しみや悔しさに満ちているからです。   必要なのは、悲しみや悔しさ、怒りといった強い感情に共感して、一緒にその感情を持つことです。 悲しみや悔しさといった感情の種類を知るのではなく、相手と同じくらいの悲しさや悔しさを持つくらいに感情を再現することです。 他のもので感情を埋め合わせるようなことを言うのではなく、相手の感情にどっぷり浸りましょう。   強い感情にどっぷり浸かるのは楽なことではありません。 悲しみ、悔しさ、怒り、虚しさを再現して追体験するのは、自分の感情も大きく揺り動かされます。 精神的な消耗、疲労を求められる作業でもあります。 しかし、楽ではないからこそ、誰でもできるわけではないからこそ、大切な人を支える意味がある行為なのです。

自死で失った人の代わりも代替物もないのに心無い発言をされる

愛する人の自死に「ふたをする」ということ | シンパス相談室

愛する人の自死に向き合うことは辛すぎる。よって、「心にふたをして過ごす」多くいます。 今回は、心にふたをすることの意味について考えてみたいと思います。   愛する人の自死にふたをするとは 愛する人が突然自死でいなくなってしまった。人生において最大の悲しみの一つであるこの瞬間に、多くの人は「何故自死してしまったのか」「どうすれば防げたのか」「自分の何が悪かったのだろうか」「どれだけ苦しかったのだろうか」など、自死した愛する人について、自分との関係性について、自死の状況について深く思いを馳せます。 しかし、自死に関して別の向き合い方があります。それは、「心にふたをして過ごす」ことです。 1.辛すぎる 自死に関してふたをする理由の一つは「辛すぎる」からです。 愛する人が突然いなくなったことの悲しみ、後悔、怒りといった感情をそのまま受け止めること、そして心を掘り下げていく作業を行うには精神的に耐えられない。だから、今は「心にふたをする」ということです。 2.他に守るべきものがある 子供だったり、経営する会社だったり、自身のキャリアだったりなど、「今後の人生を考えると、今は別なことを守らねばならない」という状況はあります。 特に、配偶者を亡くした夫や妻は、収入を得つつ残された子供を育てていかねばなりません。 そうなると、「自死の悲しみは後回しにして、今置かれた状況を何とかしないと」と「自死に向き合うことを後回しにする」ことはよくあります。     自死について考えることを後回しにして、時間が経過しても、悲しみや辛さがなくなるわけではない 強い感情で長い時間経過すると、感情は穏やかなものに変化します。 しかしそれは、「ある一定期間、長い時間を取って、自死について自分の感情に向き合って辛い思いをそのまま受け止めて苦しんだ」後の話です。 「自死と向き合うことを、諸事情から後回し」にした場合、愛する人の自死に関する感情は穏やかにはなりません。 例えば、何十年後になって自死に関してのふたを少し開けただけで、自死が起こった当時と同じだけの質量の感情が湧き出てきます。   私が尊敬するミュージシャンに、ロックバンド「X Japan」のリーダー、Yoshikiさんがいます。 Yoshikiさんは11歳の時に父親を自死で亡くしています。 Yoshikiさんの自伝によると、葬儀の後からは家族は何もなかったように過ごすことになり、自死について語られることがなかったとあります。 このような状況下、つまり自死について正面から向き合える状況がなかったため、Yoshikiさんは、自死によって生まれた強い感情を音楽に向けることで「生き延びた」のだと思います。 しかし、父の自死に向き合うことを状況的に許されなかったYoshikiさんは、50歳を過ぎた今でも、インタビューで父親の自死について語る時に涙を流しています。 Yoshikiさんの中には、お父さんが亡くなったときの強い感情がそのまま心の中にあるのではないかと思います。 11歳の少年が、父の自死について語る場がなかった、そしてその強い感情を別な形で発散した結果、X Japanの音楽が生まれました。しかし、幼いYoshikiさんの心境を思うと、なんと悲しく辛いことだろうと思います。     後回しにしてもいい。でもいつかは向き合う時が来る もし、自死に対する悲しみや怒りにそのまま向き合うことができる、同じ立場の家族と語り合えることができる(その余裕がある)のであれば、ぜひそうするべきです。 しかし、状況がそれを許さない場合は、後回しにしてもよいのだと私は思います。 ただ、愛する人の自死について深く思いをはせること、強い感情と向き合うことは永遠に避けられるわけではないのもまた事実です。 永遠に向き合わないようにすると、いつまでも強い感情をふたをしている状態が続くこととなり、何かの拍子で感情が噴出する、つまり感情のコントロールが難しくなります。 多くの人にとって、感情をうまくコントロールしにくいのは、大変生きにくいことです。 よって、「今は向き合わない」と決めたとしても、「いつかは向き合う」という自負を持って日々を過ごしてはいかがでしょうか。   自死に関して向き合うことは辛く悲しく怒りたくなることですが、「向き合わない」よりも「向き合う」ことが不幸ではない、と私は信じています。 向き合うからこそ得られるものもたくさんあるのです。

愛する人の自死に向き合うことを後回しにすることの功罪

自死遺族を支える人は常に肯定的でいるよう心がける | シンパス相談室

自死遺族を支える人は、自死遺族が発する悲しみ、辛さ、怒りといった強い感情に一緒に押し流されてしまいがちです。 支える人も自死遺族と一緒に自暴自棄になってしまうことさえあります。 しかし、支える人は常に肯定的でいるように心がけるようにしましょう。   肯定的でいるとはどういうことか 自死遺族の大前提として、残念ながら愛する人は再び戻っては来ません。しかしながら人生は続きます。 自死と言う別れ方、そして愛する人がいない人生を生き続けることに大きな辛さ、苦しみがあります。 そうした自死遺族に対して肯定的でいる、とはどのようなことでしょうか。 これは言うのは簡単ですが、少し掘り下げると大変難しい問いですし、人により定義は違います。   以下は私の考えです。 「愛する人がいない人生など、生きる意味がない」「辛い、苦しい、悔しい、悲しい」と言う自死遺族に対して、肯定的でいるということは、次の2つではないかと思います。 1つめは、「愛する人を失ってもなお、あなたの人生そのものには意味がある」という、自死遺族自身の生そのものを肯定するということです。 2つめは、「あなたがいると、私は幸せだ。私(支える人)の人生を幸せにしてくれるあなたの人生には意味がある」という、自死遺族を支える人の視点で生を肯定するということです。   もちろん、これに対しては容易に反論されてしまいます。 「愛する人がいない人生など意味がない」「あなたは幸せかもしれないが、私は不幸だ」といった反論です。 しかし、こうした反論に対して揺るがず、一貫して「あなたの生そのもの、私を幸せにしてくれるあなたの存在に意味がある」と言い続けること、これが「肯定的でいること」ではないかと私は思います。 自死遺族がどう考えても肯定的になれないからこそ、支える側が常に肯定的でいること、否定的にならないこと、生を肯定することが必要です。   そして当然といえば当然ですが、肯定的なメッセージを常に言葉で伝えるようにしましょう。 「言葉に出さなくても分かってもらえる」という人もいるかもしれませんが、言葉に出さないと伝わなかったり、言葉に出すとさらに多く伝わります。 「言葉に出そうとすると、否定的なことを言ってしまいそうになる」のでなければ、積極的に思いや愛を言葉で伝えるべきです。     肯定的でいられない時は、支える人が疲れている時 「今日も頑張って愛する人を肯定的に支えよう」「一貫して肯定的なメッセージを送ろう」と思っても、自死遺族による辛い言葉や怒りを多く吸収してしまうと、支える人も疲れてしまいます。 以前に執筆した「自死遺族を支える家族は、自身が燃え尽きないよう注意する」の記事でもご紹介したとおり、一生懸命になりすぎて常に一緒にいることで精神的な逃げ場がなくなります。 それでも頑張ろうとすると、つい「支える私だって大変なんだ」「いい加減にしてほしい」など、怒りの言葉が出てしまいます。 普段ならやり過ごせる、自死遺族のふとした言葉や態度にイライラしてしまう時は、まずは自分が疲れていないかどうか確認しましょう。 そして、疲れているのであれば、いったん離れて自分のための時間を取りましょう。 外でコーヒーを飲むでもいいですし、一人で映画やドラマを見るのでもいいですし、友達に会うのでもいいです。 自分がリラックスできること、楽しいことをしましょう。 自死遺族を支えることとは別なことをすることで、精神的な疲れを和らげ、再び肯定的に支える気持ちになれます。     肯定的に支えるのは長い旅のようなもの。短距離走ではない 大切なのは、長期間安定して支え続けることです。短期間だけ頑張って燃え尽きては意味がありません。 支える側が取り組んでいるのは、100メートル走ではなく、長旅であると理解しましょう。 長旅であるからこそ、一日中観光をすることもあれば、数日休むこともあります。 これら全てが旅であるように、直接的に支えていない時であっても、それは大きな視点で見ると「支える『旅』」です。 肯定的であるべく努力し、エネルギーを使い、疲れてエネルギーが減ってきたらイライラする前に回復させ、そして再び努力に向かう。 こうした繰り返しを粛々と続けることが、肯定的に支えるということではないかと思います。

自死遺族を支える人は常に肯定的でいるよう心がける

自死遺族を支える人は話泥棒せずに傾聴する | シンパス相談室

自死遺族になった人を支えようとした方、特にこれまで辛く困難な経験を乗り越えてきた方にありがちなのが「話泥棒」です。 そして話泥棒の対局にあるのが「傾聴」です。 以下で見ていきましょう。   話題を自分の話に関連付けて長々と話してしまう=話泥棒 例えば、以下のような場面を思い浮かべてみてください。   Aさんは30代で、少し前に家族が自死し、自死遺族となった。 Bさんは現在50代で、これまで色々な苦難を乗り越えてきた人。Aさんの先輩格でとても思いやりが深い人。 Aさんは辛さを聞いてもらおうと思い、Bさんの所に行き話を切り出す。。。 が、Aさんが何か話をすると、Bさんは「確かにそうよね。私も30代のころこういうことがあって、、、そのときこう考えて、、、おかげで何とか乗り切っていまがある」というように、Aさんが何かを話すたびに、Bさんは自分の経験や考えと結びつけて、ひたすら話してしまう。 話が終わった後、Bさんは「長時間いい話をたくさんできた。Aさんもさぞかし喜んでくれただろう」と思うが、Aさんは「Bさんは自分の話をしたかっただけで、私の話をあまり聞いてもらった感じがしない」と思ってしまう。   これが話泥棒です。 前提としてですが、話泥棒をする人の多くは悪い人ではありません。上位のBさんの例でも、Bさんは純粋な善意から話をしています。 しかし、話泥棒の人の多くは、自分が話すことが好きで、多くの人との会話の多くで「相手の話を聞く」よりも「自分から話す」量の方が圧倒的に多いです。 そうしたコミュニケーション方法が常となっているため、自死遺族に対しても話しすぎてしまいます。 そして、話泥棒の人の多くは、自分が話泥棒をしているという自覚はありません。   自死遺族についてある程度理解がある人は、「自死遺族の話を傾聴する」ことの重要性について理解しています。 しかし、自死遺族についての理解がない人は、「善意で」話泥棒をしてしまい、傾聴してくれないのです。     話すことより傾聴が重要 いくら過去の自身の経験や乗り越え方、助言や励ましなどを話したところで、傾聴がなければあまり意味がありません。 自死遺族は、大変に辛い自分の思いを、自分の言葉で紡ぎ出そうとしています。そして支える側は、相手になり切ってその言葉の重さ、裏にある複雑な感情を「心で感じ」ます。 これが傾聴です。 傾聴に関しては、厚生労働省のサイトが参考になります。 話を「聴く」~積極的傾聴とは~   厚生労働省のサイトでは、傾聴について以下の3点が記載されています。 1.共感的理解 (empathy, empathic understanding) 相手の話を、相手の立場に立って、相手の気持ちに共感しながら理解しようとする。 2.無条件の肯定的関心 (unconditional positive regard) 相手の話を善悪の評価、好き嫌いの評価を入れずに聴く。相手の話を否定せず、なぜそのように考えるようになったのか、その背景に肯定的な関心を持って聴く。其のことによって、話し手は安心して話ができる。 3.自己一致 (congruence) 聴き手が相手に対しても、自分に対しても真摯な態度で、話が分かりにくい時は分かりにくいことを伝え、真意を確認する。分からないことをそのままにしておくことは、自己一致に反する。 この中で最も大切なのは、1の共感的理解です。 というのは、私たちは毎日、会話や出来事を「自分の立場で、自分の気持ちで理解」しています。 このため、何かの会話をしたり出来事に遭遇すると、自分目線で理解し、評価してしまいます。 上記のBさんの場合は、「大変に辛い物事を乗り越えてきた自分の経験からすると、自死遺族になることはそこまで大変ではない」という評価が入ってしまっていたり、「これだけ辛いのだから経験豊富な私の話が役に立つに違いない」という思い込みだったりします。 相手の立場に立って、相手の気持ちに共感することは、ある程度練習しないと難しいです。 そして、多くの人はこうした練習をしていないので、傾聴ができていないのです。     うまく話すことは重要ではない 自死遺族を支える前提として「うまく話すこと」は重要ではないです。 例えば傾聴した結果、出てきた言葉が「お辛いですよね」の一言しかないかもしれません。 しかし、傾聴して相手になり切って、感情を心で再現して出てきたのが、たった一言であったとしても、きちんと傾聴できていれば伝わります。 話すことよりも「相手の立場で、相手と同じように感情を動かして聞くこと」が大切です。   以前執筆した、「自死遺族に対する「アドバイス」に価値はない」の記事でも書いた通り、アドバイスや助言は大して意味はありません。 同時に、支える人の自分語りや経験談も大して役に立ちません。   ついつい話泥棒してしまいがちな人は、上記の傾聴の3原則を頭に入れてから自死遺族と相対してください。

自死遺族を支える人は話泥棒をしない

自死遺族向けカウンセリングの分類と使い方 | シンパス相談室

自死遺族向けの電話相談・カウンセリングには多くのサービスがあります。無料であれ、有料であれ、無制限にカウンセリングを受けることはできませんので、どのように受けるのが効果的か考えてみました。   カウンセリングと傾聴の違いを理解する さて、詳細の説明に入る前にカウンセリングと傾聴の違いについて理解しましょう。 自死遺族向けの無料の電話は、「カウンセリング」ではなく「傾聴」であることが多く、有料になると「カウンセリング」となる場合が多いです。では、カウンセリングと傾聴の意味はどう違うのでしょうか(出典: Google)。 ・カウンセリング  悩みを訴える人の相談に応じ、(精神医学の立場から)助言や指導をすること。 ・傾聴  (耳を傾けて)熱心にきくこと。 カウンセリングは助言や指導があるが、傾聴にはそれがないのが大きな違いです。では、傾聴よりもカウンセリングの方が優れているのか、というと一概にそうも言えません。 例えば、「とにかく話したい、聞いてほしい、助言やアドバイスをしてほしくない、理解してもらえただけで十分」というのであれば、傾聴のほうが向いています。 逆に、「アドバイスや指導が欲しい、客観的にどうなのか知りたい、どう考えればいいのか、どうすべきなのか理解したい」のであれば、カウンセリングのほうが向いています。 また、段階によって傾聴とカウンセリングを使い分けるということもあります。例えば、自死に直面した初期は傾聴のほうがよいが、時間が経つとカウンセリングのほうがよい、などです(注意:人により違いますので鵜呑みにしないでください)。 まずは自分が、傾聴が必要なのか、カウンセリングが必要なのかを理解しましょう。   どんなカウンセリングがあるか さて、カウンセリングを大別すると、「無料・電話」「有料・電話」「有料・対面」の3通りがあります。 そして、どの方法でも共通するメリットとしては、「家族のエネルギーを使わずに済む」「外部の人が客観的に対応してくれる」「過去のカウンセリング・傾聴の蓄積がある」です。個別に違うメリットとデメリットについては、以下でご紹介します。 無料・電話 上記でお伝えした通り、無料の電話は傾聴であることが多いです。以前の記事「自死遺族が無償で傾聴サポートを受ける方法」で書かせて頂いた、自死遺族向けの無料電話サービスを提供しているNPOも傾聴です。 無料の電話傾聴サービスのメリットは「無料であること」「傾聴に特化していること(助言や指導がないこと)」「家の外に出る必要がないこと」「場所に依存しない(過疎地でも対応可能)」となります。家の外に出る元気がない時でも対応可能です。 逆にデメリットは、「電話を取る人が毎度違い、指名できないこと」「電話が混んでいる場合は待つ必要があること」「電話を掛けられる時間帯に制約があること」「傾聴のみでカウンセリングではないこと」「あくまでボランティアであること」となります。 有料・電話 当相談室は有料のカウンセリングですが、有料のカウンセリングのメリットとデメリットについても記載します。こちらについては以前の記事「自死遺族カウンセラーに依存しない」も合わせてご覧ください。 有料電話カウンセリングのメリットは、「ボランティアではなくプロが対応」「家の外に出なくても良い」「同じ人がいつも対応してくれる」「時間の融通が利く」「場所に依存しない(過疎地でも対応可能)」です。 デメリットは、「時間単価が高額である」「電話なので延々と話して延長となりさらに高額になりやすい」「カウンセラーの助言や指導が適切でない場合がある」となります。 有料・対面 対面の有料カウンセリングは、電話とはまた違ったメリットデメリットがあります。 メリットは、「対面で対応し、受け取る感情の量が多い」「プロが対応」「同じ人がいつも対応」となります。 デメリットは、「時間単価がさらに高額である」「カウンセラーの助言や指導が適切でない場合がある」「場所の都合上延長できないことがある」などです。   どんな時に使えばよいのか これらのカウンセリングや傾聴サービスの多くは善良なカウンセラーやボランティアにより運営されており、それぞれ意味があります。 では、どのように使い分ければよいかについて解説します。   まずはじめは「無料・電話」 いきなり有料のカウンセリングに頼る前に、無料の電話傾聴サービスを使うことをお勧めします。 傾聴サービスは1週間のうち数日、時間枠を設けて来た電話を取って対応してくれています。 そこで話してみて、自分の心が少しでも楽になるようであれば、傾聴が役立ったことになります。 もし、傾聴が合っているようであれば、また別な日の時間枠に電話することで、自分の心にたまった重しを傾聴により軽くしてくれます。 無料の傾聴で十分であれば、有料のサービスをあえて使う必要はありません。 気を付ける点としては、カウンセリングは期待できないこと、それから電話を受けてくれる人を指名できないので、前回受けてくれた人が良かったとしても、次回電話した時に受けてくれるとは限らないことです。   次は「有料・電話」 無料の電話傾聴サービスが合わなかった場合、物足りなかった場合は、有料の電話カウンセリングをお勧めします。 ネットで検索すると、この手のサービスは多数あります。ただ、個人でやっている人も多いため、良質なサービスであるかどうかは実際に会話してみないと分かりません。 また、「傾聴に近いカウンセリング」もあれば、「助言や指導が強いカウンセリング」もあります。 自分は傾聴寄りのカウンセラーが良いのか、助言や指導が強いカウンセラーが良いのかを判断しましょう。 そのうえで、ホームページなどからカウンセラーの個性を判断して、自分に合っているカウンセラーを選んで電話しましょう。 カウンセラーが合っているかどうかわからないので、支払う金額は最小(最小時間単位)にしましょう。合っているか分からないうちに、多額の費用を前払いすることは避けましょう。 気を付ける点としては、「もし合わないと感じたら、次回電話しない」ことです。当然と思いがちですが、かなり強引なカウンセラーの場合は、次回の予約を入れさせるように仕向けることがありますので注意してください。 ある人にとって良いカウンセラーであっても、別な人にとっては合わないのはよくある話です。もし、知り合いから「良いカウンセラーがいる」と進められても、合わない場合は断る勇気を持ちましょう。 また、良いカウンセラーに当たった場合はとてもラッキーですが、「時間に区切りなく延長すること」はやめましょう。電話カウンセリングは場所に依存しないため、際限なく延長できてしまうがゆえに危険なのです。例えば、最初の60分は6,000円だが、延長すると料金が倍になるカウンセリングもあります。カウンセラーはできるだけ延長するように引っ張る場合もありますが、こちらから切るように伝えるか、電話開始時にあらかじめ「1時間できるので、1時間たったら教えてください」と伝えましょう。延長を重ねると本当に高額になります。   直接会いたい場合は「有料・対面」 直接カウンセラーに会いに行くエネルギーがあるのは、とてもよいことです。仕事や買い物など、最低限必要な外出以外に、外出ができるようになったということです。 対面のカウンセリングも多数あり、個人でやっている人も多いので質に関しては玉石混交です。 「傾聴型」「助言指導型」などがあるのも、電話カウンセリングと同じです。 合うカウンセラーかどうかわからないので、時間は最も短くすべきなのも同じです。 対面だと、視覚などの音声以外の感覚からカウンセラーのエネルギーが伝わりますので、良いカウンセラーで費用的に問題なければ、お勧めできます。 気を付ける点ですが、場所の都合上、電話ほど延長が容易ではないことがあるので、延長の繰り返しで料金が増えるリスクは低いかと思います。 対面の別のリスクとしては、「別の有償サービス(高額なセミナーなど)」に誘導される危険があることです。色々と理由を付けて、二泊三日のセミナーに高額な料金での参加を誘導されたりします。もし、こうした高額有料オプションの紹介が出てきたら、以後の接触は避けたほうがよいでしょう。   無料・対面は注意 対面のカウンセリングは基本有料ですが、「お悩み聞きます」といった形で、無料でカウンセリングを提供している個人、団体があります。 認定NPOなどであれば信頼性が上がりますが、よく分からない団体が主催する無料カウンセリングサービスには注意しましょう。 裏に宗教団体や、自己啓発セミナーなどが控えている場合があるためです。   まとめ ・「無料電話傾聴サービス」「有料電話カウンセリング」「有料対面カウンセリング」がある。 ・興味がある人は、まずは無料電話傾聴サービスを試すことをおすすめ。 ・物足りない人は、有料電話か有料対面のカウンセリングをおすすめ。 ・カウンセラーがよいカウンセラーか、また自分に合うか分からないので、有料の場合は最小単位の金額だけ支払う(まとめて先払いしない)。 ・「無料対面カウンセリング」は、高額オプションを売ろうとするものや宗教関連もあるため、特に注意。   最後に、カウンセラー選びは自己責任です。もし「このカウンセラー大丈夫そうに見えるかな」と思った場合は、家族や友人に聞いてみることをお勧めします。

自死遺族のカウンセラーの使い方

自死遺族となった直後の辛い時間をどうやり過ごすか | シンパス相談室

自死遺族となった直後は、強烈なフラッシュバック、後悔、悲しみ、怒り、悔しさといった感情が想起され、一日をやり過ごすことが特に大変です。 この時期をどう過ごせばよいか、いくつかアイデアをお伝えしようと思います。   一日中想起するのが当たり前 まず、当たり前のことではありますが、自死遺族となった直後は亡くなった家族について、自死について、自死を防げなかったことについて、亡くなった方とのやりとりについてなど、何度も何度も思い出します。 いや、一日中その思いにとらわれている、というほうが適切かもしれません。 そして、いくら精神的、肉体的に疲労していたとしても、思い出すこと、大きく感情を動かすことを止めることはできません。 理解頂きたいのは、このような感情、精神の動きをすることはしごく当然である、ということです。 「明日仕事があるのに」「考えていたって前に進めない」などと自分を責める必要はありません。   自死遺族になるという経験は、多くの人にとって人生で最も辛い経験です。 自分自身が今、人生最大の精神的打撃を受けていることをまず理解しましょう。人生最大の精神的打撃を受けているのですから、思った通りに体も心も動かないのが当然です。 だから、繰り返しになりますが、一日中思いにとらわれている自分を責める必要はないのです。   自死遺族となった直後の時間をやり過ごす方法 では、一人で時間をやり過ごす方法にはどのようなものがあるのでしょうか。 1.仕事に没頭する 会社で勤務している男性に多い方法です。平日は勤務先で朝から夜遅くまで仕事に打ち込んで、時間をやり過ごすという方法です。 この方法のメリットは2つあります。 1つめは、仕事という金銭的な対価があることに打ち込むことです。 言い換えると、仕事をしていれば金銭的に生活が困窮せずに済みます。 2つめは、仕事でのコミュニケーションがあるということです。 自死遺族として思いにとらわれているだけでなく、仕事上のコミュニケーション、例えば「見積書の作成について確認」「営業資料の提出期限を聞く」「顧客との会話」などが多くあります。これは、自死遺族となった辛さを一瞬でも忘れさせてくれます。 2.時間つぶしをする 会社で勤務していない人が多く取っている方法です。 例えば、「小説を読む」「映画・ドラマを見る」「ネットサーフィンする」といったものです。 このメリットは、何かに没頭している時間があると、一日が過ぎ去るのが早く感じられることです。 例えば、何もせずに一日中自死となった人について想起していると、とにかく辛く時間の流れが止まって感じられます。 しかし、ドラマなどを見ていると時間の流れが早く感じられ、いつの間にか夕方、夜になっていたということもあるからです。   なお、何で時間つぶしをするかで重要なのは「生産的な時間つぶしでなくても自分を責めない」ことです。 例えば、「映画・ドラマを見る」よりも、「就職して仕事を始める」「ギターを練習して修得する」「運動する」のほうが能動的な時間つぶしに感じられるかもしれません。 しかし多くの人は、自死遺族として衝撃を受けている状況で能動的な活動に取り組めない人がほとんどです。 「どうせこれだけ時間があるのだから、何か身になるものをやらないと」と自分を責めてしまうと、せっかくの時間つぶしが自分を苦しめてしまうことになりがちです。 よって、「時間が早く過ぎればよい」と割り切って、自分に合う時間つぶしを見つけましょう。   個人的におすすめなのは、ネット動画です。 アマゾンプライムビデオや、ネットフリックスなど、わずかな月会費(定額制)で膨大な映画・ドラマにアクセスできます。 ドラマなどは、次々と見ているうちに何話も消化して、あわせて時間も過ぎ去っていきます。 楽な姿勢で、スマートフォンやタブレットなどでこれらを見て時間つぶしをするのは悪くない選択肢だと思います。   なお、家の外に出なくても本が読める電子書籍は、次々と購入するとかなりの高額になるので注意してください。 それから、ネットサーフィンは、ついつい自死の苦しみに関連する事柄を検索してしまうので、こちらも合わせて注意してください。   苦しみを少なく、やり過ごせばいい 時間をやり過ごす努力するということは、苦しみ自体がなくなるわけではなく、苦しみを感じる時間を少なくして、特に辛い時期を乗り切るということです。 動画を見ている最中だって、仕事をしている最中だって、自死遺族としての強い感情が頻繁に想起されます。 しかし、何もせずにしているときよりも、没頭するものがあるだけ、想起する時間が少なく済みます。 時間が経っても、自死遺族としての辛さがなくなるわけではありません。しかし、自死遺族となった直後の「毎日をやり過ごす辛さ」は緩和されます。 合法的であれば、どんな方法でもよいです。何とか乗り切って頂ければと思います。

自死遺族となった直後の辛い時間をどうやり過ごすか

自死遺族を支える家族は、自身が燃え尽きないよう注意する | シンパス相談室

自死遺族となり最も大きな衝撃を受けた方は、とても大変です。多くの人にとっては、人生で最も大きな苦しみを共に生きなければならないためです。 そして、そうした自死遺族を支える家族もまた、大変です。   「支える」という言葉の裏側 辛い苦しみの中にいる家族を支える。 言葉で言うのは簡単ですが、実際に本気で取り組もうとすると非常に大変なことです。 よく、自死遺族を支える家族は、事情を知る親戚や友人などから「あなたがしっかり支えてあげないと」などと言われます。 しかし、「しっかり支えないと」という言葉を言う人たちは、「支える」とはどのようなものかについて、理解がありません。 生活リズムの乱れを理解したうえで、最低限のリズムを整えるようにする 食生活の乱れを理解した上で、最低限の栄養を取らせるようにする 自死遺族となった苦しみと感情の激動について、ひたすら傾聴し理解を示す 時折やってくるフラッシュバックの際に、精神的に安心するように一緒にいてあげる 悪夢にうなされる家族を励ます 昼夜逆転に付き合う 「あなたがしっかりしていれば自死は起こらなかった」といった攻撃に耐える 「もう生きていたくない」という言葉を発するたびに、生きる意味と愛を伝える 状態があまりにひどくなったら、カウンセラーや医師に相談しにいく 気乗りしない当人を、カウンセラーや医師に連れていく 列挙すると、まだまだありそうです。 支える、というと一言ですが、この言葉はとてつもない忍耐力と愛情により裏付けられているのです。 そして、自死遺族となった後の感情の動きは、平時とは全く異なります。 いくら平時に忍耐力と愛情にあふれている人であったとしても、自死遺族となった家族の乱高下する感情に常に向き合うことは非常にしんどいのです。   支える側も燃え尽きてしまいがち 最初に「懸命に支えよう」と思っていた人であっても、真面目に一生懸命支えようとすればするほど、精神的な逃げ道がなくなります。 近親者の自死により最も打ちひしがれている家族を支えようとすると、常に一緒にいなければと思ってしまいがちなためです。 常に一緒にいる、ということは、仕事などのやむを得ない外出を除き、常に一緒にいることを意味します。 つまり、常時自死遺族を支える役回りを背負い込み、自分の活動や趣味ができなくなってしまいます。 常時戦時体制のような状況で、精神を張り詰めて過ごし、支えねばと思うほどに、精神は逃げ場を失い、燃え尽き始めてしまいます。 何もしたくなくなる、自分の感情のアップダウンが激しくなる、過食や拒食といった症状が現れる、眠れなくなる、自分も悪夢を見るようになる、といった具合です。 この状態が進んでいくと、支える側が燃え尽きて、支えられなくなるだけでなく、治療が必要な状態になってしまいます。   ちなみに、支える側が燃え尽きてしまうのは非常にレアなケースではありません。 真面目に向き合い続ける、支え続ける家族であればあるほど、起こり得るケースです。   支える側は人生を楽しむことを忘れない 自死遺族で強い苦しみの中にいる家族がいたとしても、そうした家族を支え続けるには、支える側に余裕がなければいけません。 その余裕は、「自死遺族を支えること」以外の活動やコミュニケーションから生まれます。 例えば、趣味であったり、友人との食事であったり、一人になる時間を持って読書したりといった活動です。 こうした活動は、「自分は『自死遺族を支える家族』以外の人生があり、人生は楽しいし生きる意味がある」と改めて思えるために必要なものです。 いくら家族が苦しみの中にいるからといって、自分も同じレベルの苦しみに入ってしまっては、支える活力は生まれません。   家族を真剣に支えることと、自分の人生を楽しむことは矛盾しません。 むしろ、自分の人生を生きているからこそ、人を支えることができます。 苦しみの中にいる家族がいるのに、自分だけ楽しむなんて、、、と罪悪感を感じてしまうかもしれませんが、適度に息抜きをしてください。 適度に息抜きをするほうが、置かれた状況に飲み込まれず、状況を俯瞰することができます。 状況を俯瞰できるからこそ、自分が果たす役割だったり、求められる振る舞いだったり、自分の精神力の限界などがちゃんと見えてきます。 これにより初めて、長く安定して支えることができるようになります。

自死遺族を支える家族が燃え尽きないようにする
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