自死遺族・支えるあなたを、支える
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自死遺族に近寄ってくるカルト宗教への対応

自死遺族となった方に対して、親族、友人、知人などが、「辛い友人を助けたい」「少しでも気分が晴れる手助けをしたい」といって、助けを申し出てくる場合があります。すべてを疑う必要はありませんが、結婚詐欺、リフォーム詐欺、絵画販売詐欺、高額な自己啓発セミナー販売などに狙われる可能性もあります。 その中に、カルト宗教への勧誘もあります。以下で解説します。なお、筆者は特定の宗教に帰依していないことを明言しておきます   まずは疑う 多くの宗教は、おおむね「人としてどう良く生きるか」「困難をどう乗り越えるか」といった根源的かつ答えが出ないテーマについて、宗教的な見地から答えらしいものを導き出して、人の心に安心感をもたらします。 伝統的な宗教の多くは、信仰対象や教義、儀式の方法などは異なりますが、概ね、「家族愛」「隣人愛」「人が困ることをしてはならない」といった内容を重視しており、大きな差はないと筆者は考えています。宗教団体を維持するために、ある程度のお布施や寄付を求めることはありますが、各家庭において大きな負担となる金額を要求することはありません。 しかし、カルト宗教は「強い献金」「勧誘ノルマ」「絶対的な帰依」などを求める点で大きく異なります。カルト宗教を信仰すること自体が悪とはいいませんが、家族や友人関係を崩壊させ、経済的な苦境に追い込まれる可能性が高まるため、筆者は推奨しません。 よって、助け出の申し出については「本当に良い人かどうかはわからない」と、「まず疑う」が正しい対応です。   自死遺族がカルト宗教からの勧誘を防ぐ方法 さて、精神的な困難に直面している自死遺族が、友人知人親族からの助けの申し出が「カルト宗教」の勧誘かどうかを見極めるのは難しいです。カルト宗教の勧誘は、団体名を名乗らず、「宗教の勧誘ではない」と嘘をついて行われるためです。 「手助けを申し出てくれた人がいるが、その人のことを詳しく知らない」という場合、その人はカルト宗教とは何も関係ない本当に良い人である場合もあれば、カルト宗教の信者である場合もあります。下記は、そうしたカルト宗教信者からの勧誘を防ぐための方法です。 自分一人で会いにいかない。親族や親友といった長く信頼関係がある人に同席してもらう 相手には一人で来てもらう レストランやカフェなどの公共の場で会う(自宅や見知らぬ場所に行かない) まず、これが一番大切な内容です。こちらが2名、相手が1名で数的に優位に立つため、強引な勧誘を防げます。加えて下記の点も注意するとよいでしょう。 名前を聞いて、後で検索する(宗教団体のホームページなどで、検索表示されることもある) 自身の個人情報をできるだけ伝えない(住所、電話番号、メールアドレス、勤め先、卒業した学校など) 「次にいつ会う」「すごい人に会わせる」「集会に行く」といった次回の約束をしない 先方が書類を出してきても一切署名しない 物を借りない、もらわない(物を受け取ると、また次回会う口実が生まれる) また、家族や親友の同席が難しい場合は「会うのを断る」のがよいです。ただ、同席してくれる人がいない場合で、一人で会いに行く際は下記に注意しましょう。 相手には一人で来てもらうよう連絡する 連絡したにもかかわらず、複数人だった場合はそのまま帰宅する 上記の注意事項に加えて、下記に注意する トイレに立つ場合は、飲み物を飲みきってから行く(睡眠薬などを混ぜられる可能性がある) 音声を録音し、後で信頼できる人に聞いてもらう 「そこまでやるか」という内容もありますが、精神的に弱っているときは注意に注意を重ねたほうがよいでしょう。   カルト宗教の見分け方 さて、手助けをしてくれた友人知人親族が、「実は私は◯◯という団体に属しています」と、自分から宗教団体名を言う場合があります。この際、この団体は安全なのか、そうではないのかを見極める方法をお伝えします。 「団体名 カルト」で検索して、下記のような内容の有無を確認する 「◯◯(団体名)はカルト教団です」の多数の被害者の声が出てくる 多額の献金を求められる 存命中、または最近まで存命中だった人物が絶対的な信仰対象 信者以外との関係を断つように求められる 勧誘ノルマがある 教義に、一般的な価値観とは反するものが含まれている 他の宗教団体の信者に対して攻撃的、排他的な姿勢が強い 集会への参加義務などが多く、活動に多大な時間が取られる 上記の複数が該当した場合、カルト宗教である可能性が高いといえます。 なお、カルト宗教は危険で、伝統宗教は安全かというと必ずしもそうではありません。伝統宗教の宗派であっても、その末端の寺院や協会のトップである宗教者が強欲で、高額なお布施を要求する例は多数あります。実際に、筆者の両親も「精神的な苦境にあった際に、伝統的な宗教の寺院を頼ったら、その対応に際して高額なお布施を要求された」ことがあります。 カルト宗教は絶対危険で回避しなければならないが、伝統宗教はそれに比べればリスクは低い。ただ、絶対安全なわけではない。こう理解するのがよいでしょう。 また、カルト宗教=宗教法人というわけではありません。宗教法人以外の法人格を持っている、または任意団体(法人格がない)であったとしても、内実はカルト宗教である場合が多数あります。このため、「うちは宗教法人ではないから宗教でもカルトでもないよ」と言われても、そのまま信用しないようにしましょう。   相手がカルト宗教であることがわかった場合 手助けしてくれていた人がカルト宗教の信者であることがわかった場合の対応です。 二度と直接会わない 二度と会話しない(電話、LINE通話含む) しつこく連絡してくる、自分に直接会いに来た場合は、「もう会いに来ないでください」「しつこい場合は警察に連絡する」と伝え、それで来る場合は本当に警察に連絡する カルト宗教の信者であっても、社会の一員として暮らしていますので、自身が犯罪者になることを望んでいません。よって、こちらが強硬な態度を見せれば、多くの場合はあきらめて他のターゲットの勧誘に向かいます。 なお、警察に連絡した結果、この程度の話に警察が動いてくれる例は少ないですが、「連絡した」という事実が重要です。しつこい場合は躊躇せずに連絡しましょう。

家族が自死で亡くなったことを他人に言うべきか

家族が自死で亡くなった場合、自宅前にはパトカーや救急車がサイレンを鳴らして来るため、「何かが起こった」ことはすぐに近所には知れ渡ります(特に地方や戸建ての家であればそうです)。 自死直後の対応や葬儀などが終わってから、「そういえば、何があったの?」と近所の方や他人から聞かれた場合、どう答えるのがよいのでしょうか。     「家族は自死で亡くなった」というのが勇敢で最善の選択肢か? 自死遺族にとっては、愛する人が自死したというのは、これまでの人生で直面したことがないほどの大きな衝撃です。自死を選ばざるを得なかった家族に対して、自分は十分な助けの手を伸ばしていたのだろうかと、悔しさ、悲しさ、そして自分や自死した家族に対する怒りで自分の身が焼き尽くされそうになります。 そんな状況において、「何かが起こった」ことだけを知っている他人がやってきたとします。 この際、「家族は自死で亡くなった」というべきか、それとも「別なこと」をいうべきでしょうか。   最近はメディアなどで、「家族が自死だったことを顔出しして言う」方がよくクローズアップされます。そして、メディアはこうした人を「家族の自死を正面から受け止め立ち向かう、勇敢な方だ」と取り上げます。こういう風潮が出てくると、「家族が自死だ」ということを言わない、隠すことはとても後ろめたいことのように思う人もいるかもしれません。 しかし、ちょっと待ってください。自死遺族となったあなたにとって、「今」大切なことは、何でしょうか。   残念なことを先にお伝えします。 「家族が自死した」ことを近くに住む他人に伝えた結果、「適切な助けの手が差し伸べられる」ことはまずありません。 適切な助けの手とは、「実は自分も自死遺族で大変辛い思いをした。何もできないが話したくなったら連絡してきてください。一生懸命聞きます」というように、押しつけがましくなく、かつ自死遺族の感情をよく理解した「心に寄り添う」ことだと私は考えます。しかし、自死遺族の前にこのような方が来ることは、大変残念なことに99.9%はありません。 代わりに登場するのは、あなたの愛する家族が自死したことを「ニュース」「噂話」として消費したいだけの人たちです。 「2丁目の佐藤さんの息子さん、自殺したっちゃんだって」 「ちょっと暗い感じの息子さんだったわよね」 「あの感じじゃ、会社でもうまくやれなかったんじゃないかしらね」 「友達とか彼女とかもいたんだかいないんだか」 「家にこもってゲームばかりしてそうな感じよね」 そして、ダメ押しの内容がこれです。 「きっと、家族がちゃんと支えてあげなかったから、死んじゃったのよ。お父さん、お母さん、兄弟は何していたのかしら」 自分が愛する家族、そして愛する家族が亡くなっても生きていかねばならない自分と生き残った家族は、周囲からこういう対応をされることを望むでしょうか。   自死遺族となったあなたが今必要なことは、「自死遺族としての辛さ、苦しさと向き合いながら毎日を乗り越える」ことです。 毎日を生き延びるために必要なこと、手助けを得られる確率が高いことはできる限り試してみるとよいでしょう。逆に言えば、手助けを得られる確率が低いことや、自分の心をかき乱したり、興味本位の言葉の刃を向けてくる人を遠ざけねばなりません。無用なストレスはできるだけ少なくすべきです。 本当に大切なことが何かを考えたときに、「家族が自死した」と言わないことは、多くの場合にとってよい選択肢となる。私はそう思います。     「家族は自死で亡くなった」という前に気を付けたいこと ちなみに、私は「家族は自死で亡くなった」という人を攻撃する意図は全くありません。 家族の自死と向き合ううえで、「家族が自死で亡くなった」と言わない、言えないことがあまりに重いと感じる人は、「自死で亡くなった」というのも1つの方法だと思います。 ただ、言う前にはよくよく考える必要があります。それは、 一度言った言葉は引っ込められない 自分だけでなく、家族にも影響が出る ということです。   まず、「自死で亡くなった」と言わない場合は、後になって「実は自死だった」ということはできます。「あまりに辛かったから自死と言えなかったのだろう」と周囲は思うだけですし、自死してから時間が経過していれば興味本位の好奇心もずいぶんと減っています。自死したその時を知っている人もずいぶん少なくなっているかもしれません。 しかし、「自死で亡くなった」と言った後で、あまりに辛いからといって「実は自死ではなかった」という修正はできません。「自死で亡くなった」というのは一方通行で逆戻りできない、引っ込められない言葉です。それゆえによくよく注意する必要があります。 次に、「家族が自死で亡くなった」というと、自分だけでなく各家族の交友関係にも知れ渡ります。例えば、兄弟が「家族が自死だった」と言った場合、自死であることを言いたくない父や母の交友関係にも知れ渡る可能性が高いということです。家族間で「自死だったと言いたい」「言いたくない」の意見が分かれるのは自然なことです。ただ、「言ってしまえば言葉は引っ込められない」ため、「言いたくない」家族に最大限の配慮が必要です。例えば、自宅から離れた会社関係の人には言うが、地元の友人には一切言わない、といった配慮です。   繰り返しますが、「家族は自死だった」といった後、言葉は引っ込められません。そこで自分が受けるだろう不利益、家族が受けるだろう不利益をよくよく考えましょう。     言う、言わないは1と0ではない 自死に関して他人に言う、言わないは1と0のように、完全に白黒がつくものではありません。 例えば、「信頼できる友人にだけは言う」「遠くに住む親戚にだけは言う」ことは良い方法だと思います。 言うと決めたからと言って、自分に悪い影響を及ぼしてくる可能性がある人を含めて、全員に言う必要はありません。この人であれば大丈夫、という人に限定して伝え、助けてもらう、話を聞いてもらうというアプローチは現実的です。   また別なアプローチとしては、「かなり後になってから言う」という選択肢もあります。 例えばミュージシャンのYOSHIKIさんは、10歳の時に父親を自死で亡くしていますが、それを公表したのは40歳を過ぎた後になってからです。ちなみにYOSHIKIさんの場合、自死だと言わなかったのは「父が自死した翌日から父について触れられなくなった」という、家庭の影響が強いため「自死と『言えなかった』」という縛りが強かったのではないかと推察します。しかし、いずれにせよ「自分で『言っても大丈夫』という状況になってから言った」という冷静な判断はとても参考になります。   言う、言わないは皆さん一人一人の人生においてとても大切な要素になります。メディアを見て「言うことが素晴らしい、言わないのは逃げだ」という短絡的・理想主義的な考え方ではなく、「自分が大切なものを守るためには、どちらがいいのか」という現実的な考えを持っていただければと思います。

家族が自死で亡くなったことを他人に言うべきか

自死遺族に対する「善意」の押しつけは有害 | シンパス相談室

「大変なことがあったが、適切な外部の助けを得て、『回復』して立ち直り、前向きに生きていく」。 よく映画やドラマで見る光景です。映画やドラマでは主人公に対して、友人や家族が「最もよいタイミングで、最適な助けの手」を差し伸べていますが、実際のところ「最もよいタイミング」「最も良い方法」で助けの手が差し伸べられることは、ほぼありません。 それなのに、「私ならできる」と勘違いする人は後を絶ちません。     「自分なら助けられる」という『善意』 人生多かれ少なかれ、それなりの苦難を乗り越えてきた、という自負を持つ人は多いはずです。年を重ねるほどに、苦難に直面する機会も増えてくるため、その傾向は強まります。 いくつもの苦難を乗り越えてきた、と思っている人の一部は、このように考えます。 私は自分の努力で苦難を乗り越えた経験がある。 私はどうすれば苦難を乗り越えられるかを知っている。 だから、私は他人の苦難を乗り越えられる手助けができる。 そして、自死遺族に対して、『善意』から以下のように話してきます。 私の人生で、こんな辛いことがあった。 そして、私はこのように乗り越えてきた。 乗り越えるときに、このような助けが役に立った。 私はあなたの辛さがよくわかる。助けたい。乗り越え方も知っている。だから、こういう助けを提供してあげる。 実際は、苦難を乗り越えた経験の「自分語り」が多く、ここまで論理だてて話をされることはありませんが、おおまかにいうとこのような話です。 自死遺族の多くは、こうした話を聞くと「相当な違和感」を感じるはずです。その違和感をまとめると以下になります。 あなたと私は別の人間だ。 別な人間で、辛さについて理解できているとは思えないのに、なぜ乗り越え方を知っているのか。なぜ今がタイミングと分かるのか。 あなたの経験に基づく考えや方法がなぜ役立つと思えるのか。 そして、多くの場合は以下の点もあるはずです。 そもそも、あなたは自死遺族ではない。 自死遺族でないのに、なぜその辛さがわかるといえるのか。 冒頭で「善意」と書きましたが、この「善意」は無知と傲慢さから来る、「押しつけがましい善意」です。     「私のサポートで回復させた」と善人面したいだけ こうした「押しつけがましい善意」の持ち主は、相手の自死遺族の感情や辛さを「いったん自分の中で再現してみる」ことなく、自分の思い込みから来る考え方や方法をそのまま押し付けてきます。相手の立場になって考えることができないのです。 そして、「私のように考えればいい」「私のように行動すればいい」と勧め、それに対して自死遺族が反論すると、暗に「それが出来ないのはあなたの努力不足」と言ってくることもあるようです。「望んでもいない助けの手を勝手に差し伸べてきて、意見すると勝手に気分を害する人」といえば、その異常さは分かるのではないかと思います。 こうした人は、「大変なことがあったが、適切な外部の助けを得て、『回復』して立ち直り、前向きに生きていく」というストーリーにおいて、自分こそが「適切な助けの手を差し伸べる『善人』」だ、と思い込んでいます。 もちろん、こうした「押しつけがましい善意」は有害でしかありません。自死遺族一人一人の辛さを理解することは、同じ経験をした人でも簡単ではありません。自死遺族経験を積んだカウンセラーでもそうです。苦しんでいる自死遺族から話を聞いた経験のない人が、まったく別の苦難を乗り越えた経験に基づいて「できる」というのは無理があります。     一歩引いて対応し、信じて待つこと では、「押しつけがましくない善意」で対応するには、どうしたらよいかですが、「一歩引いて対応する」のと「待つこと」ではないかと、私は考えます。 まず、「一歩引いて対応する」ですが、サポートする側の人は自分の能力を過信せずに、状況を俯瞰するのが大切です。 自死遺族の苦しみを理解したいと思うが、その辛さの深さ、大きさをどれだけ理解できるは分からない。 自分がサポートしたところで、自死遺族にとって助けになるかどうかは分からない。 一番大切なのは、「自分が関わることで、自死遺族をさらに辛い気持ちにさせないこと」。 自死遺族の話をよく聞くこと。話すのは自分ではなく、自死遺族。 自分が自分が自死遺族に対してできることも、能力も限りがある。自分はスーパーヒーローではない。 次に「信じて待つこと」ですが、これは以下の点が大切です。 自死遺族が、「自死遺族になる前」に戻ることはない。一見そう見えたとしても、心の中は全く別になっている。 (関連記事) 自死遺族は「回復」するのでなく「自分を作り直す」 | シンパス相談室 自死遺族としての自身を再構築するのは、想像を絶するほどの困難が伴う。 サポートする側ができることは限定的。関わることで状況が劇的に変わることはない。 しかし、何もできないわけではない。「話を聞く」「共感する」だけでも助けになる。 短期的にエネルギーを集中的に投下するのではなく、長期的に穏やかに支え続けるのが「サポートする」ということ。 サポートする側は主役ではない。主役は自死遺族。サポートし、信じて待つ。 自死遺族の辛さは、生涯に渡り付き合わねばならないほどの辛さです。「「自分は微力だが、相手の立場に立って謙虚に考え、支え続けて、待つ」。善意の押しつけの代わりに必要な態度は、このようなものではないでしょうか。

自死遺族の回復は強制されるものではない

自死遺族はInstagram, Facebookから一時的に離れる | シンパス相談室

  自分はこんなに辛いのに、苦しいのに。 なぜあの人はこんなに人生が楽しそうなのだろう なぜあの人には幸運が訪れるのだろう なぜあの人は行動的でいられるのだろう 多くの自死遺族は、精神的、肉体的な不調をきたしている最中に、誰かと自分を比べて思い悩んでしまいます。 1つ言えることとしては、「自分を苦しめるネタを自ら仕入れに行く」必要はないということです。     ソーシャルメディア (SNS) は見せびらかし文化 多くの人は、自分の辛い部分をさらけだすこと、苦しみを共有してもらおうとすることより、「楽しい自分」「人生がうまくいっている自分」「お金がある自分」「他の人にはできないことをしている自分」を見せたがります。 これは人間の根源的な心理のようなものです。「自分は成功者であり、失敗者ではない。それがゆえに自分は相対的に優れている」と自分で思い込むことで、安心を得たいのです。 ソーシャルメディア (SNS) は、こうした見せびらかし主義を増幅させるものですが、InstagramとFacebookはその中でも最たるものです。   Instagramは匿名利用できますが、写真がメインであるため、他人の「楽しい写真」「幸せな写真」を否応なく見せつけられます。写真には言葉以上のインパクトがありますので、「楽しく幸せな友人の写真」と「辛く苦しい自分」を対比してしまうことになります。 Facebookは匿名利用が禁止なので、実名利用になります。既にFacebookアカウントを持っている人は、Facebookにアクセスするたびに友人知人が美味しいものを食べた、楽しいところに外出した、家族で旅行に行ったという投稿を見せつけられ、辛くなります。   そして、「楽しい投稿を見て辛くなる自分、を見て、また辛くなる」のです。     辛い場に自分から入っていくことはない ソーシャルメディアは中毒性があります。「見たら辛くなる」ことが分かっていても、ついつい気になってみてしまう。そして辛くなる。こうした気持ちはよく理解できます。 しかし、見てしまって辛くなるくらいであれば、InstagramもFacebookもいっそ、スマホからアプリを消してみてはどうでしょうか。 アプリを消しても、アカウントが消えるわけではないので、時間が経って再び見てみたいときにアプリを入れればいいのです。 (ちなみに筆者は、プライべードで辛い時期に両方のアプリもスマホから削除しました。今も削除したままです)   「Facebookはメッセンジャーで友人とやり取りしているので困る」という場合は、Facebookアプリではなく、Messengerアプリを使えば解決します。 Messengerアプリであれば、他人の投稿を見ずにメッセージのやり取りができます。 また、LINEなど、そもそも写真入りの他人の投稿を見てしまうアプリを使うのも手です。     ソーシャルメディア (SNS) は逃げていきません InstagramやFacebookのアカウントを作って投稿していたが、使わなくなった人は少なくありません。 (ちなみに筆者はInstagramはほぼやっていませんし、Facebookも年に1,2回投稿する程度です) 自死遺族でなくても、いわゆる「SNS疲れ」という言葉がある通り、多くの人が「見せびらかし」の場所にうんざりしています。   よって、あなたがInstagramやFacebookのアプリを消去して、それ以後アクセスしなくなったとしても不思議なことではありません。 あなたが投稿しなくなったことを不思議に思う人は多くありません。よって、「もし投稿をやめたら、何て思われるだろうか」と心配することもありません。 逆に、不思議に思って心配して連絡してきてくれる人は、本当の友人かもしれません。     思いを出すならブログやTwitterがおすすめ 「InstagramやFacebookを使わない方がよいのは分かった。では、自分の思いをどう出せばいいのか」。 このように思われる自死遺族の方もいらっしゃるかと思います。この場合、筆者はブログとTwitterをおすすめします。   ブログとTwitter、どちらが良い、悪いということはありません。 傾向を見ていると、自死遺族となり最も辛い時期にいらっしゃる方は、長文のブログを書くだけのエネルギーがない場合が多いため、Twitterを利用されている場合が多いと思います。 (最も苦しい状態にいるときは、パソコンを開くのはかなり大変だが、スマホなら何とかできる、という方は多いでしょう) なお、Twitterに関しては 自死遺族のTwitter利用のすすめ の記事をご覧ください。   そして、自死遺族としての最も辛い段階が過ぎた、と感じる方が、「『自死遺族となった直後の苦しみ』と『最も苦しい状態を過ぎた今思うこと』」をブログに書いていることが多いようです。 (とはいえ、ブログで長文を書くのはかなり大変な作業なので、Twitter利用者と比べると、ブログ執筆者はそう多くありません)   大切なのは、あなたの思いを出せる場があるかどうか、そして思いを苦労せずに出せるかどうかです。 InstagramやFacebookでは出せない思いを、最も苦労が少ない方法で出して頂ければと思います

Instagram, Facebookから一時的に離れることのすすめ | シンパス相談室

自死遺族が1日を乗り越えることがどれだけ大変かを理解する | シンパス相談室

  誰にでも平等に訪れる1日。この1日を「やり過ごす」ことが自死遺族にとってどれだけ大変か。 「自死遺族の苦しみ」と一言でまとめてしまうと漠然としてしまいますが、自死遺族にとって「1日をやり過ごす」ことこそが最も辛いことなのではないか。そう思い、書きました。     1日中、そして終わりなく続く 愛する人が自死した後、一般的にはさまざまな感情の大波がやってきます。 そして、その大波が去った後に自死遺族として最も辛い時間がはじまる。そう感じる方が多いようです。   朝、 目を開けたくない。ふとんから出たくない。部屋から出たくない。シャワーを浴びたくない。家族と会いたくない。服を着替えたくない。ちゃんとした時間に起きられない。自己嫌悪。 日中、 早く時間が過ぎて一日が終わらないかだけ考えている。食事も食べたくない。何もやる気がしない。家の外に出るのも億劫だ。ピンポンが鳴ったが出たくない。 夜、 なぜ明日という日が来るのか恨めしく思う。眠れない。ふとんの中でスマホを見ても気がまぎれない。このままでは明日も起きられない。焦る。 そして、朝も昼も夜も、自死した愛する人を思い出します。   自死遺族でない方は想像してみてください。「自死遺族が辛い」というのは、沸騰するような感情に身を焼かれ、活動ができなくなり、そのことにより自分を責める。そして、これが毎日繰り返されるということです。 このループからいつ抜けられるのかは、全く分かりません。すべきことがあっても、守らねばならない人がいても、達成したい目標があっても、できないのです。     「努力不足」ではない。もう努力しすぎるくらい努力している 自死について理解のない人の中には、「ご家族の方が亡くなられたとはいえ、いつまでもそれを引きずっているのは努力不足」だという人がいまだにいます。 自死遺族、という言葉が一般的になりつつあるので、口には出さないが、実は努力不足だと思っている人も少なくありません。 しかし、もちろん自死遺族が努力不足であるわけではありません。 例えば、「1日何もできない」「家事も仕事もできない」「生活リズムもめちゃくちゃ」という自死遺族がいたとして、その人は怠けているのでしょうか。 違います。 その人は「1日をやり過ごす」、いや「1日を乗り越える」という、辛く苦しい、そしていつ抜けられるか分からない苦闘に毎日挑んでいるのです。   「朝の来ない夜はない」という言葉があります。 しかし、「いつ朝が来るか」分からない状態で、辛く苦しい明日を迎えることの恐怖こそが、自死遺族が最も辛いことではないか。筆者はそう思います。     家族・友人は「1日を乗り越える」苦闘に共感する 人間は、「合格した」「賞を取った」「何かをやってくれた」「お金をたくさん稼いだ」「昇進した」というように、物事を達成したり、行動したりしたときに、賞賛や感謝の言葉が出てくることが多いと思います。 もしあなたの愛する家族・友人が自死遺族として苦しんでいるとしたら、あなたに対して「素晴らしい行動」を取ってくれることは難しいでしょう。 しかし、自死遺族にとって最も辛い「1日を乗り越える」ということに直面していることを忘れないでください。 「1日を乗り越える」辛さに向き合うことは、誰かから賞賛されることではありません。 賞賛されるどころか「生活リズムがめちゃくちゃ」「家事もやらず怠けている」などと言われることのほうが多いかもしれません。   しかし、毎日の辛さと真剣に向き合っていることこそ、賞賛に値するのではないでしょうか。 自死遺族となった家族や友人が、誰からも賞賛されない辛さを毎日、毎日乗り越えていることに思いをはせて、あなたならではの共感の言葉をかけてあげてください。

自死遺族が1日を乗り越えることがどれだけ大変かを理解する

自死遺族は「回復」するのでなく「自分を作り直す」 | シンパス相談室

大切な人の自死に直面した自死遺族が、以前と同じような日常生活を営めるようになった際、周囲の人は「〇〇さんは家族の自死から回復した」「立ち直った」と反応する場合があります。しかし、この「回復」「立ち直る」という言葉は、実は適切ではありませんし、大きな勘違いが含まれています。   自死遺族の「回復」についての間違った理解 回復の意味を辞書で引くと、「悪い状態になったものが、元の状態に戻ること」と記されています。 「回復した」と言われる自死遺族は、一見すると、以前と同じ程度の活動・仕事・学業ができるようになっているため、「回復」と言われがちですが、実は全く違います。 自死について理解のない人は、活動的になった自死遺族を見るとこのように想像します。 元の状態から、いったん活動が出来なくなったが、再び「回復して」回復前と同じに戻ったということです。 しかし、自死遺族の多くはこのような「回復」を誰一人として、していません。 活動量だけ見れば、元の状態と同じレベルに戻った、回復したように見えますが、自死遺族の中身は「回復して元の状態に戻った」のではありません。「活動ができるレベルに『自分を作り直している』」のです。   自分を作り直す 大切な人が自死によっていなくなった自死遺族は、多くの精神的困難に直面します。 自責の念、悔しさ、悲しさ、怒り、不安などです。 愛する人がいなくなった、そしてその愛する人が「自分が生きている理由」であったり、「自分が一番多くの愛情を向ける存在」であった場合は、自身の「生」を再定義しなければなりません。「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」といった問いと向き合わねばなりません。 こうした問いに逃げずに向き合い、苦しみながらも自分なりの「回答」を見つけた自死遺族は、再び生に向かいます。 *「回答」という言葉が本当に適切か自信がないのですが、ここでは「回答」とさせていただきます。 たとえ、同じだけの活動をしていたとしても、その方の中身は、苦しみ抜いた末に「新たに作り直されて」いて、過去と同じではありません。   気軽に「回復した」と言わないで欲しい 筆者がこの記事を書こうと思った理由は、自死遺族は努力すれば元の状態に「回復」する、と考える人が多数いるからです。 そこまで関心のない方にとっては、自死遺族が活動できる量が同じであれば「回復」でも「作り直し」でも、同じなのかもしれません。 しかし、その中身は「風邪をひいて、薬を飲んだら、『回復して』体調が戻った」という意味の「回復」ではなく、全く別な場所にたどり着いた「作り直し」であることを知って頂きたいと思ったのです。 よって、自死遺族の方に対して、「回復」という言葉を気軽に使わないほうがよい。そう筆者は思います。

自死遺族は「回復」するのでなく「自分を作り直す」

自死遺族の辛さはなぜ理解されないか、2つのグラフで説明する | シンパス相談室

自死遺族の方の多くは、「愛する人が自死したことによる辛さ」に加えて、「自分の辛さを理解してもらえない」という辛さに直面します。 的外れな励まし、「回復」への期待、「そろそろ大丈夫だろう」といった思い込みなどは何から生じるのかを考えると、2つのグラフに集約されるのではないかと思いました。     自死遺族の辛さは時間とともにどう変化するか はじめに、自死遺族の辛さについて確認してみます。筆者は、数カ月~1年という期間で見たときの辛さの変化は、以下のような方が多いと感じます。 愛する人が亡くなった直後は、精神的に大きな打撃を受け、起こった事実を受け入れられないという辛さがありますが、その後の「状況を受け入れた後の辛さ」のほうが本当に辛いという方が多いように思います。 数年、10年、何十年というスパンで見ると、辛さは次第に減っていきます。しかし、数カ月~1年というスパンで見ると、「時間が経つにつれて辛くなる。そして、ずっと辛いまま」と感じます。     自死遺族ではない方は、自死遺族の辛さをどう理解しているか 次に、自死遺族ではない人は、自死遺族の辛さをどう理解しているかについてです。 自死遺族でない人は、数カ月から1年というスパンであっても、「時間が経つと辛さが減る」と理解します。 このため、自死遺族でない人は、自死遺族に対して「Xカ月も経ったのだから通常通り仕事してほしい」「1年経ったからそろそろ回復してほしい」といった発言をすることになります。 自死遺族の多くは、数カ月から1年というスパンでは、辛さが増しているのが実態であるのに、周囲からは「時間の経過とともにどんどん回復しているはずだ」という思い込みで判断されているのです。     自死遺族の方は、自分の辛さの変化について理解してもらう 自死遺族と、そうでない人で、「自死遺族としての辛さ」について大きなギャップがあることがお分かりいただけたかと思います。 では、自死遺族の方は心無い発言からどう身を守ればよいのでしょうか。 それは、理解してもらう必要な相手に対しては、話す機会を見つけて「自分の辛さがどう変化したか」「自死直後と比べて、今はどれくらい辛いか」を説明して理解してもらうことです。 もちろん、こうした説明をすること自体がかなりの精神力を使いますので、大変なことでもあります。 しかし、一度理解してもらえれば、無理解に基づく発言により精神的に傷ついたり、仕事やプライべートで支障をきたす場面を減らすことができます。 自死遺族の周囲にいる多く人は、自死遺族に嫌がらせをしたいわけではありません。 ただ、無理解によってつい傷つけることを言ってしまうことがあるのです。 こうしたリスクは減らすことができれば、お互いがストレス少なく過ごせます。     自死遺族でない方は、「時間の経過とともに辛くなる」ことを理解する 自死遺族でない人は、自死遺族は「時間の経過とともに精神的に楽になる」のではなく、「時間の経過とともにむしろ辛くなることが多い」と理解しましょう。 理解すれば、「時間の経過とともに回復する」という思い込みに基づいた発言・要望を出して、自死遺族を傷つけることも減るはずです。   以上の内容が、多くの自死遺族ならび自死遺族でない方に届き、無理解によって自死遺族が傷つくことが減ることを祈ります。

自死遺族の辛さはなぜ理解されないか、2つのグラフで説明する | シンパス相談室

自死遺族でない人が、自死遺族の友人に会う時の注意点 | シンパス相談室

以前、自死遺族になってから友達に会えなくなったという記事で、自死遺族視点で何故友人と会うのが辛くなるのかについて書きました。 では、自死遺族の友人と会うときに、友人側は何を注意すればよいかについて考えてみます。     自死遺族の友人は、勇気を振り絞って来ている 多くの自死遺族は、「遺族」ではなくて「自死遺族」となったことで、自死ではない「普通の遺族」とは異なる辛く苦しい「被害」を、他の人から受けています。 例えば、他の人から何気なく死因について尋ねられたり、家族が自死であることを口にすると相手の反応が変わったり、あらぬ詮索をされたり、遠まわしに非難がましいことを言われたり、自死遺族でない「遺族」の観点から無用なアドバイスをされたり、などです。 また、自死遺族であることにより、あらゆる発言に過敏になってしまうため、相手の善意による発言を「この人は本当に善意で言っているのか、そうでないのか」と考えてしまい、善意をそのまま受け取れないという辛さもあります。 こうした辛い思いをしながらも、友人に会いに来ているということは、「この人になら会っても多分大丈夫」と思って、勇気を振り絞っているからです。友人一人に会うのでも簡単ではありませんし、決心が必要になります。 よって、もし自死遺族となった友人から連絡がきたら、「この人は辛く苦しい中で、私なら会っても大丈夫と思って連絡してきてくれた」と思いましょう。     自死遺族と会う友人がすべきこと 1.聞き役に徹し、目線・表情・身振りで共感を伝える 自死遺族が勇気を出して友人に会うことの目的は、友人の日常話を聞くためではありません。自分の辛さ、苦しさ、今何を思っているかを誰かに聞いてほしいからです。 よって、友人は話し役ではなくて、聞き役となるべきです。色々と思ったこと、質問したいことなど多くあるかもしれません。しかし、友人はある意味で「テニスの壁打ちの『壁』役」のような役割を果たすべきです。 つまり、自死遺族の友が話し出すのを穏やかに待ち、話を始めたら静かに聞きます。なお、静かに聞くと言っても無表情で、石のように固まっていても仕方ありません。 「自死遺族となったあなたの辛さ・苦しさを本当に意味で理解できないかもしれないが、寄り添いたいと思っています」という思いで、自死遺族の友に目線を合わせて、相手の感情をスポンジのように吸収し、共感していることを伝えましょう。言葉に出さなくても、ちょっとした表情の変化、目線、身振りで多くのことが伝わります。   2.相づちを入れる 会話の合間には適度に「相づち」をいれます。 ここは、あくまで「相づち」であるべきで、「あれこれ質問したり、自分のことを話す」のは避けるべきです。 相づちは、自死遺族の友の感情を理解・共感しようとしていれば、ちょっとした発言でも十分に伝わります。例えば、自死遺族となって辛かった話を何分も聞いて、最後に友人が「それは辛かったね」とたった一言の相づちだけしたとしても、ちゃんと聞いていれば、その一言が伝わります。 理解の深さを示そうとして、あれこれ長々話す必要はありません。   3.感謝する 自死遺族は、友人と会う前に「この人と会っても大丈夫かどうか」をよくよく考えて相手を選んでいます。逆に言えば、会う相手として選ばれたということは、信頼されているからです。 もし自死遺族の友を大切に思うのであれば、「大変な時に連絡してきてくれてありがとう」「会えて嬉しかった」と感謝の意を表すとよいです。 友人と会ってひとしきり辛く苦しい話をすると「自分ばかり辛く苦しい話をして、相手は不快だったのではないか」と思う自死遺族は多いです。よって「私はあなたに会えてうれしかった」と言ってくれるだけで、心の負担が軽くなります。     自死遺族と会う友人がすべきでないこと 1.自分から自死のことを聞かない 自死遺族を目の前にすると、「何を理由にして、どんな状況で亡くなったのか」など、色々と聞いてしまいたくなりがちです。これは、単に好奇心を満たすためではなく、「状況を理解した上で話を聞きたい」という思いからも聞きたくなってしまいがちです。 しかし、自分から自死についてあれこれ聞いてはいけません。自死遺族が話す内容から、理解しましょう。たとえそれが断片的で不十分な内容であって、全体像が分かりにくかったとしても、聞くべきではありません。 例えば、「『自死した理由』が分からないので、相手の言うことがいま一つよく理解できない」という状況だった場合、「自死した理由だけ教えてもらえれば、話を深く理解できそうだ」と思い、聞いてしまいたい誘惑に駆られることがあります。 しかし、「友人である自死遺族が一番言いたくないこと」が「自死した理由」であるかもしれません。何を聞いても大丈夫なのか、そうでないのかは友人側には分かりません。よって、自死については一切聞かないようにしましょう。   2.ため息や疲れた表情を出さない(気を抜かない) 精神的なエネルギーが落ちている場合、普段とは同じように論理的に話せなかったり、話が飛びまくってしまったり、何度も同じ話を繰り返すことがあります。 自死遺族の話を聞くことに慣れていない場合は、脈略がなく、繰り返しの話に付き合うことで、精神的なエネルギーを多く消耗します。そして、ふと気を抜いたときに「ああ、また同じ話か」と思ってため息が出たり、疲れてうんざりした表情が出てしまいます。 自死遺族は、こうしたちょっとした変化に非常に敏感です。そもそも自死遺族は、自分の辛い話をするために、友人の時間とエネルギーを取ってしまっているという後ろめたさがあります。そして、うんざりした表情やしぐさを見るたびに、「自死遺族となった自分が、友人を不快にさせてしまっている」と、自分への罪悪感を強めてしまいます。 友人も、もちろん楽ではありません。しかし、気を抜かずに頑張って話に付き合って、思ったままの感情を出すのをぐっとこらえて頂きたいのです。 もし忍耐力の限界を超えたと感じた場合は、「うんざりした態度、表情」を出してしまう前に、「ちょっと用事が入ってしまって」など、相手を傷つけない理由を作って、その場をお開きにする方がまだよいかと思います。   3.オーバーコミットしない。自分の能力を過信しない 「相手を助けたい。支えになりたい」と思うことと、「相手を助ける、支える」のをできることは違います。強く思ったとしても、それができるかどうか、能力があるかどうかはまた別問題です。 このジレンマに直面するのは、これまで自死遺族とは接したことのない「優しい方」です。 自死遺族の友の支えになってあげたい、という混じりっ気なしの善意で「いつでも電話してね。とことん付き合うから」などと言ってしまいます。 自死遺族の中にはこうした話を額面通り受け取ってしまって、頻繁に友人に連絡をするようになった結果、友人が耐えきれなくなり、関係が壊れてしまうことはよくあります。 大切なのは、「思うこと」と「できること」を区別して、「できないこと」「できるかどうか分からないこと」をコミットしないことです。 気軽に「いつでも電話してね」などと言ってしまうと、最終的に両者とも苦しんで悲しい結末になります。     思いを口にするだけでも心は軽くなると信じる 話すことは、それだけでも大きな意味があります。 話を聴く側からすると、後ろ向きな話で、何も前進していないような話だったり、話せば話すほど苦しくなるような内容だったとしてもです。 その場では、話す自死遺族は本当に辛そうだったとしても、翌日になってみて「話したことで幾分か心が軽くなった」ということもあります。 よって、その場の話が辛く悲しく、出口がない闇にいるような話であっても、共感し、嫌な感情を表出させず、忍耐強く付き合うのが友人の価値です。 友人としては楽ではありませんが、「この人なら大丈夫」と見込まれているからこそ、自死遺族は会う気になったのです。友としての一番の腕の見せ所だと思って、ぜひ踏ん張って頂ければと思います。

自死遺族でない人が、自死遺族の友人に会う時の注意点 | シンパス相談室

自死遺族カウンセラーを選ぶ際に注意すべき5つのポイント | シンパス相談室

愛する人が自死で亡くなり、自分や家族だけでは辛さを抱えておけない。そんな時に頼りになるのが自死遺族向けのカウンセラーです。 多くの自死遺族カウンセラーは、自死遺族の役に立ちたい、自分の苦しかった経験を役に立てて欲しいという思いで真面目に活動を行っています。 頼りになる多くのカウンセラーがいる反面、気をつけて選ばないと高額な費用の支払いが必要となるだけでなく、回復に逆行することさえ起こり得ます。 では、カウンセラーを探す際に、何に気を付けるべきかについてお伝えします。     1.大金を前払い かつての英会話スクールNOVA商法を思い浮かべて頂くと分かりやすいです。 NOVAは、XX回分の費用を前払いし、利用するには都度予約しなければいけないが、予約が空いていない、そして授業の内容が良くないというものでした。 自死遺族カウンセラーの場合は、「1回分の費用が通常は高額だが、カウンセリング回数をまとめ買いすると大幅に安くなる」といった名目で高額な支払いを前払いさせるというものです。 そして、いざカウンセリングを受けたいときには予約が出来ず、またカウンセリングを受けても既に費用が支払われているためか、手を抜いた対応をされる場合があります。   2.重ね売りしようとする ビジネスで営業をやったことがある方はよく分かるかもしれません。 営業に際しては、新たな顧客を獲得するより、既存顧客に重ね売りするほうが楽に売り上げが上がります。 例えば、1万円の売り上げをあげるために「新規顧客それぞれ1万円の売上を上げる」よりも、「既存顧客の1万円の売上を2万円にする」、つまり1人の既存のお客さんに重ね売りするほうがはるかに簡単なのです。   この論理を自死遺族カウンセリングに持ち込むカウンセラーも残念ながらいます。 「これまで何度かカウンセリングを請けいて頂いた方向けに、月間XX名限定で特別のカウンセリングを行っています」 「費用はやや高くなるけど、効果は高いと思います」 といった話で、通常のカウンセリングとは別の高額メニューに誘導します。   また、高額メニューには誘導しないまでも、カウンセリング時間が終わりそうになったら、何かしら話をつないで時間を引き延ばそうとするカウンセラーは残念ながらとても多いです。 カウンセリングを受けるということは、何かしら話をしたいと思っているわけで、そこに付け込んで何時間も延々と話をさせるように持って行きます。 気が付いたら、予定していた時間の何倍の時間も話してしまい、追加の支払額が大変な金額になることもあります。   3.自分の個人的体験・先入観に寄りすぎている カウンセリングは、カウンセラーの直接的な経験、これまで対応してきたカウンセリング経験、またはカウンセラーが学習した内容に基づき行われます。 これはどのカウンセラーも同じです。 ただ、カウンセラーが経験や学習を踏まえながらも、「ある程度客観的な視点を持ち、相手を理解しようとする」のか、「あくまで自分の個人的見解・考えを押し付けようとしているのか」により、カウンセリングの質が変わってきます。   よくあるのが「毒親を自死で亡くしたケース」です。 毒親を自死で失った子供が持つ感情は、自死遺族が持つ一般的な感情、すなわち「悲しい」「悔しい」「辛い」だけではありません。 しかし、毒親という存在を理解しようとしないカウンセラーは「親=子供に愛情があって当たり前」「亡くなった人を許すことが回復への第一歩」といった「経験」「先入観」「思い込み」から出ようとしません。 結果、満足のいかないカウンセリング、自分には全く当てはまらないカウンセリングとなってしまいます。   4.結論を誘導する カウンセリングのはじめに、ある程度話を聞いた後、「この相談者は、このような点で悩んでいるのに違いない」と決めつけるカウンセラーは少なくありません。 こうしたカウンセラーは、自分が設定した「落としどころ」に向かってカウンセリングを続けるので、話に寄り添っているようで、実は寄り添っていません。 カウンセラーは話をしながら、「やはり相談者はこのように思うか」「自分の考えは正しかった」と、頭の中でひたすら仮説の正しさを立証しているのです。 相手の話を素直に聞くのではなく、仮説の正しさを証明するために話を誘導し、落としどころにちゃんと着地するようにするため、話を聞いているようで実は効いていません。   5.自分に合っていない よいカウンセラーのはずなのだが、何かしっくりこない。私が悪いのだろうか。 そのように感じる相談者の方は少なくありません。 しかし、相談者もカウンセラーも人間同士なので、相性があります。また、相談者が相談するタイミングでどのような感情だったか、どれくらい精神的に元気かによっても、最適なカウンセラーは違うことがあります。 「一生懸命励まし元気づけてくれるカウンセラー」もいれば、「相談者にできるだけ話をさせ、最小限だけ話すカウンセラー」もいます。 「明るく元気なカウンセラー」もいれば、「落ち着いて感情をあまり出さない」カウンセラーもいます。 「適度に雑談を入れるカウンセラー」もいれば、「自死に関する話しかしないカウンセラー」もいます。 「個人的な話を多くするカウンセラー」もいれば、「自分自身の話は一切しないカウンセラー」もいます。 どのカウンセラーも間違いではありません。しかし、重要なのはあなたに合ったカウンセラーかどうか、という点です。 いくら評判が良いカウンセラーでも、良いカウンセラーだと紹介してもらった場合でも、自分に合わないと感じた場合は繰り返しカウンセリングを受けることはやめましょう。効果が期待できません。   大きな金額の前払いはせず、「外れ」「合わない」カウンセラーからはすぐに離れる カウンセラー選びは、試行錯誤(トライアンドエラー)が必要です。 精神的に追い込まれていて、精神的余裕がない時期に、トライアンドエラーするのは非常に辛いのですが、かといって「他のカウンセラーを探すのが大変だから、今一つのカウンセラーを使い続ける」のも、大変もったいないのです。 私からのアドバイスは、以下の通りです。 信頼できるカウンセラーという確信を得るまで、多額のカウンセリング費用を前払いしない。 高額なオプションメニューを勧めてくるカウンセラーは、儲け主義の良くないカウンセラーなので離れる。 先入観で話を進めたり、結論を誘導するカウンセラーからは離れる。 人間的にはよい人だが、自分には合わないカウンセラーからも離れる。 大切なお金と時間を無駄にしないカウンセラー選びにお役立ていただければ幸いです。

自死遺族カウンセラーを選ぶ際に注意すべき5つのポイント | シンパス相談室

最初 (1年目) の命日反応を乗り切る3つのポイント | シンパス相談室

ご家族や愛する人が亡くなって、時間が経過して命日を迎えるとき、「どのように命日を乗り切ればよいのか」「命日反応とどう向き合えばよいのか」と思い悩む方は多くいらっしゃいます。   以前にこちらの記事を書き、多くの方にシェアを頂きました。 ・自死遺族を支える家族は命日反応にどう向き合うか | シンパス相談室 シェア頂いたコメントを拝見する中で、最初の命日をどう乗り切るかは、あまり重視されていない(よく分からないうちに命日になってしまう)ように感じました。   よって今回は、最初の命日に向かう上で、どういう心持ちや備えがあったほうがよいか、という内容に特化して執筆しました。   1.自分はどう過ごしたいのかを考える 多くの方は、最初の命日が近づくにつれ、様々な思いがよぎり大変に辛い思いをされます。 「命日の前でもこれだけ大変なのだから、命日になったらどんなに辛いのだろうか」 そう仰られる方も少なくありません。   命日ならび命日反応を乗り越える、いや、「やり過ごす」上で最も大切なのは「自分はどう過ごしたいのかを考える」ことです。 例えば、「できるだけ命日であることを意識せずに過ごしたい」という方もいれば、「亡くなった愛する人の思い出に浸りきりたい」という方もいます。 「できる限り一人で過ごしたい」方もいれば、「一人だととても辛すぎるので、家族や友人と過ごしたい」という方もいます。 「その日は仕事を休みたい」という方もいれば、「普段と変わらずに仕事をして過ごしたい」という方もいます。 「一周忌をやりたい」「墓参したい」という方もいれば、「儀礼的なものは何もやりたくない」という方もいます。   最初の命日をどう過ごすかについて、全ての人に当てはまる正解はありません。 ご自身が、このように過ごしたいという思いの通りに過ごすべきです。   ご自身が、自分が思う通りにその日1日を過ごした。 命日なので、様々な感情が沸き上がって来るものの、誰に強制されたわけでもない、自分が思う通りに過ごした、という事実が大切です。     2.必要に応じて家族・友人・会社関係に協力を求める もし配偶者を亡くされた方が、現在一人暮らしであれば、自分が思う通りに1日を過ごすのは容易かもしれません。 しかし、家族がいたり仕事があったりする場合、自分の思いを伝えて理解してもらい、その思い通りの一日になるようにサポートを得ることは大切です。   そのためには、早い段階で「自分が頭の中で考える、思う」だけでなく、「言葉」なり「メモ書き」などで、自分の意思を明確に伝えましょう。 別の家族が、自分とは違う命日の過ごし方を既に準備していた、その準備にはそれなりの労力や費用がかかっている場合は、どうしても他人の意思に引っ張られてしまいますので、注意が必要です。   というのも、家族がいる方は、家族それぞれごとに「どのように過ごしたいか」が衝突することもあるかもしれません。 これは、筆者の個人的な意見ですが、「無理に全員で同じ過ごし方をする」よりも、「意見が分かれた場合は、それぞれがやりたいように1日を過ごす」ほうがよいと思います。 大切なのは、自分の過ごし方とは違う家族を攻撃しないことです。 別の家族からみたら「愛情がない」「儀礼に欠く」「自分勝手でわがまま」と見える場合もあるかもしれません。 しかし、異なる人間同士です。大切な日をどう過ごしたいかが違っても、不思議ではありません。   ちなみに、家族以外になると少し話は変わります。 会社の上司や同僚、友人知人が、理解や共感を持ってくれ、サポートをしてくれるわけではありません。 もし、心からの理解とサポートをしてくれる方がいれば、そうした人には本当の思いを伝えましょう。 そうでない方には「それらしい理由を付けて自分の意思を通す」ようにしましょう。 例えば、休む理由付けが必要であれば、「家族の死去から1年が経過するので休みたい」ではなく「体調不良で休みます」でよいでしょう。 理解や共感を持ってくれない人に、正面からぶつかっても傷つき消耗するだけです。     3.「節目」を意識しすぎず、感情と向き合う 命日が近くなるにつれ、「家族や大切な人が亡くなった日」「その日の出来事」を想起して、精神的に辛くなってしまう、感情的になってしまう方もいらっしゃいます。 「1年」という期間が経過したことにより、辛かったその日の出来事、亡くなった後の日々を思い出されてしまうためです。 そして、辛さだけでなく、以下のようなものを感じてしまうこともとても多いです。 「1年経過したのだから、そろそろ立ち直るでしょう」という周囲の目や期待 「1年経ったのだから、しっかりしないと」という自分自身が持ってしまう義務感 「1年経ったのに、精神的には辛くしんどいままだ」という辛い感情 あたかも、1年経ったら色々なことができるようになっている、いや、できるようになっていなければならない、という重圧がのしかかって来るかのようです。   しかし、1年というのは単なるカレンダー上の区切りでしかなく、心の回復度合いとは何も関係がありません。 そして、大切な人を失ったことについて「何をもって回復とするか」は人により異なります。 よって、1年経過したという事実と、「1年経ったのだから」という周囲の期待や自身の感情を結びつける必要はありません。 1年という節目をどれだけプレッシャーとして感じたとしても、プレッシャーを持つことで心の回復が進むわけではないのです。     2年目、3年目のことは考えず、今のことだけを考える 自死遺族の方からは、 もうすぐ1年経つのに、全く精神的に楽にならない。むしろ悪くなっている気がする。来年、再来年には回復しているのだろうか。 といった辛さを持つ方が多くいらっしゃいます。 しかし、筆者はこう思います。辛さを感じていること、考えること、不安に思うことこそが、ご自身が立ち向かっている証拠なのではないか、と。   人それぞれ命日をどう迎えるか、どういう心持ちかは違います。 心穏やかな人もいれば、そうでない方もいます。 しかし、現在の状況から連想して、将来への不安を増大させて、さらに辛くなる必要はありません。 来年、再来年のことを連想するのではなく、まずは直近の命日と自分の心にだけ向き合うようにしましょう。

最初 (1年目) の命日反応を乗り切る5つの方法 | シンパス相談室
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