家族
自死遺族のTwitter利用のすすめ | シンパス相談室
親しい人が自死したことにより、大変な辛さを感じているが、家族や他人にこの辛さを言えない、話す意欲すらない。ただ、言葉にできないことにより心の重しが強まっていることも分かっている。 そんな方は、Twitterを使って心の内を吐き出してみるのも手です。 (ちなみに当サイトはこちらのTwitterアカウントを利用しております。ご興味ありましたらフォローください。) Twitterのすすめ 自死遺族にとって、Twitterの良い点を以下でご説明します。 140字の短文投稿=ブログを書くほどのエネルギーがいらない Twitterのメリットは全角140字という短さです。 自死遺族となってから、自分が感じること、辛さ、苦しさ、後悔などをまとめてブログに書きたい、胸の内をさらけ出したいという方は少なくありません。 しかし、自死遺族となったことによる辛さがあまりに大きいため、感じたことを網羅的に長文で書くだけのエネルギーを持てない方が多いのです。 しかし、Twitterは最大でも全角140字です。少ない文字数で投稿しても問題ありませんし、「辛い」という一言だけでもいいのです。 エネルギーが消耗しているときに、たくさんのエネルギーを使わずに投稿ができるのは、Twitterの大きな強みです。 スマホから利用可能=どんな姿勢でも利用できる 自死遺族の方が、肉体的、精神的に疲れ果てていて、ベッドに横になっていても、スマホからTwitterで投稿できるのがよいところです。 どのような状況でも、どのような姿勢でも、思いを吐き出したい、誰か見知らぬ人が読んでもらいたい。そう思ったときに最小限のエネルギーでも使えます。 これに対して、ブログは長文になるほどパソコンで入力する方が多いので、起き上がった姿勢でパソコンに向き合わねばなりません。 Twitterと比べると、若干ハードルが高いです。 匿名性が守られる そして、Twitterが良いのは匿名であることです。 匿名だからこそ、誰に気兼ねすることなく心の中の感情をそのまま出すことができます。家族、友人、知人、親戚などの目を気にすることはありません。 自死遺族となってからは、周囲にどれくらいの深さで自死についての話をすればよいか迷ってしまう方はとても多いです。そして、こうした迷いを持つこと自体も自死遺族を苦しめる材料になってしまいます。 Twitterであれば、誰に気にすることなく、自分の心の赴くままに投稿できます。それが倫理的に反していることであっても、とがめられることはまずありません。 他のユーザーとの交流 Twitterで自死に関連するキーワードを探せば、同じ自死遺族としての辛さを持っている方が大勢います。そして、ほとんどの方は匿名で投稿しています。 Twitterで似た境遇にいる人を見かけると、「自分は今、近しい人を失ってとても辛い思いをしているが、辛い思いをしているのは自分だけではない」ということを。実感を持って理解することができます。 もちろん、自分以外にそうした辛さと共に生きている人が大勢いることは分かっています。しかし、日々の苦しみ、辛さを切々と投稿する方がいるからこそ、「自分は一人ではない」「自分だけが苦しんでいるわけではない」と思えるのです。 また、自分の投稿に対して、他の自死遺族から反応があることもあります。そうすることで、人生でこれまで一度も接点がなく、一度もあったことがない、そして今後も会うことがないだろう人たちと、励まし合うことができます。 自死遺族がTwitterを使う注意点 自死遺族がTwitterを利用する上で注意しなければならないのは2点です。 言葉の暴力を受ける可能性がある Twitter上には、例えば「自死遺族」といったキーワードで検索して、見知らぬ人に対してけんかを売るような言葉を投稿するユーザーもいます。 こうしたユーザーがいるから、言葉の暴力を受けるのが怖いから、Twitterを利用したくないという方も多いかと思います。 これを防ぐには、アカウントを鍵をかける(承認しないと投稿内容を見られなくする)方法がありますが、これだとほとんど交流できません。 よって、交流もしつつ、言葉の暴力を最小限にする現実的な方法は、「暴言を吐かれたら、すぐに攻撃的なアカウントをブロックする」です。 暴言を受ける可能性があるのは残念ですが、「自死遺族」というキーワードで活発に攻撃的になるアカウントはほぼいません。 ほとんどのユーザーは、自分の辛さを語りたい、辛さを共有できる人たちと匿名で交流したい、というものです。 特定のユーザーに依存してしまう 自分と同じ境遇だった、頻繁にレスをくれる、投稿内容がよく共感できる。 こうしたユーザーに対して一方的に入れこんでしまう、別な言い方をすると「依存してしまう」「幻想を見てしまう」方がいます。 特定のユーザーのコメントに頻繁に返信したり、コメントを求めたり、直接会うことを要求する、DM(メッセージ機能)を何度も送ったりすると、相手は不快感を感じる場合があります。 そして、不快感を感じた相手はあなたをブロックする可能性すらあります。 信頼できる人だと一方的に思っていたが、ブロックされたりすると非常に悲しく成ったり、精神的に不安定になる。また「裏切られた」という感情が出て、怒りが表出することもあります。 他のユーザーとは、近すぎず、遠すぎずの距離感を保つ Twitterを利用している自死遺族の方を拝見すると、あくまで「自分の辛さを出す場所」として使っている方が多いです。 他の自死遺族の交流よりも先に、自分の辛さを出す場所として価値を見出しています。 ゆえに、Twitter自体、他のユーザーとよい距離感を持って利用されているなと思うことが多いです。 また、「自分の発言に対して返信を求めない」「特定の人に対してばかりコメントしない」「意見が違う人がいても反論せずスルーできている」方が多いと感じます。 これまでTwitterを利用されてこなかった方は、まずは自分の思いを出す場として使い、それから徐々に他の自死遺族の意見を確認したり、コメントしていくのがよいかと思います。 Twitterが、多くの自死遺族のとって、少しでも辛さを癒すツールとなることを祈っております。
自死遺族の救急車反応を理解する | シンパス相談室
自死遺族が苦しむ反応、フラッシュバックの一つとして、命日反応がありますが、これに似た反応のひとつに救急車反応があります。 救急車のサイレン音が近づくと平静でいられない 同居している家族が、自宅で自死された場合、自死した日の記憶は鮮明に残ることが多いです。 ただ、自死したときの状況や言葉のやり取りが、後日そのまま再現されることはありません。 しかし、自死した家族を発見した後で119番連絡し、その後サイレンを鳴らして駆けつけてきた救急車の音を聞くと、「家族が自死した日のことを鮮明に思い出してしまい辛い」という方は多くいます。 救急車の甲高いサイレン音は、傍で聞いていてもかなりの大音量、そして特徴的な音です。 これを自宅の前で大きな音で鳴らされることにより、家族が自死した日の記憶とサイレン音が強く結びつきます。 このため、「街角でたまたま救急車に遭遇したとき」や、「自宅の前をたまたま救急車が通過したとき」に、「自死の日の辛い記憶が思い出され、悲しくて仕方なくなる」「叫びたくなってしまう」「恐怖を感じる」のです。 サイレン音から身を守る方法はありません 家族が自死したときの記憶を思い出して辛い時には、「家族が亡くなった部屋には入らない」「遺品整理は後回しにする」「特に心身消耗している家族に対しては言葉を選んで話をする」といった対応ができます。 サイレン音が大変なのは、対策のしようがないことです。 自宅前を通る救急車だったり、街角を通る救急車に「サイレン音を消してください」とお願いすることはできません。 サイレン音があまりに辛いからと言って、イヤーマフや耳栓をつけて生活するわけにもいきません。 もちろん、もし自宅にいるときにサイレン音が聞こえてきたら、すぐにイヤーマフや耳栓をする、外の音が聞こえにくい部屋に移動するという緩和策はあります。ただ、全く聞こえないようにするのは難しいです。 「少し平穏な日々を過ごしたと思ったら、サイレン音が聞こえたことで、再び自死の記憶が鮮明に思い出されて辛い。そしてこれを防ぐ方法もない」と、自死遺族は落ち込んでしまいがちです。 救急車のサイレン音を辛く思うことを理解・共感する サイレン音が辛いと感じている自死遺族の多くは、「たかがサイレン音なのに、これを辛いと思ってしまう自分のことが嫌になる」という方は少なくありません。 論理的には「今聞こえてきたサイレン音と、自分の家族の自死とは何も関係がない」と思えたとしても、沸き上がる感情は論理を超えて押し迫ってきます。 自死遺族を支える家族がすべきなのは、この辛さを否定しないことです。 ・「たかがサイレン音でしょ」 ・「このサイレン音と、家族の自死は全く別なのだから気にすることはない」 ・「いつまでサイレン音が辛いとか言っているんだ」 ・「もっと気を強く持って」 こうした発言は、自死遺族が感じる辛さを否定し、頑張りが足りないから辛く思えるのだと指摘するものです。 自死遺族の方は、既にもう頑張りすぎるほど、頑張っています。それでもサイレン音が辛いのです。 支える側の自死遺族がすべきなのは、辛さを認めて、理解・共感することです。 ・「あの日のことが想起されて辛いよね」 ・「サイレン音を聞くと感情が揺れ動くのは、どれだけ大変なことかと思う」 ・「あんな大きなサイレン音を鳴らすことないのにね」 そして感謝の言葉を付け加えてみてはいかがでしょうか。 ・「そんな中、毎日頑張って生きてくれてありがとう」 ・「日々立ち向かってくれているから、家族一緒に過ごすことができているよ」 サイレン音による大変な辛さは、必ず乗り越えられます。 特に辛いご家族が、「今、家の前を通りすぎた救急車からサイレン音が聞こえたが、この音と家族の自死のとは関係ない」と思える日が来ます。 このためには、サイレン音に対する辛さを否定せず、理解・共感すること、そして長い目で暖かく見守ることが必要です。
自死遺族に対して「自分だったらはこう思う。こうする」は禁句 | シンパス相談室
自死遺族の方の苦しみ、辛さ、もどかしさを聞いて、「どうにかしてあげたい」「助けたい」と思うと同時に、「どうしてこのように考えてしまうのだろう」「自分だったらこうは考えないのに」と思う方は多いのではないでしょうか。 しかし、この「自分だったら」は言ってはいけない禁句です。 「自分だったら」と思ってしまう構図 父を自死で失った息子と娘、子供を自死で失った父親と母親といった人たちを思い浮かべてみてください。 客観的に見れば、「同じ兄弟姉妹だし」「同じ親だし」ということで、同じような辛さや苦しみがあると思いがちです。 しかし、辛さや苦しさが強く出て、日常を過ごすことが本当に大変になってしまう人もいれば、大変だけれども日常を回せてしまう人もいます。 (日常を回せてしまう人は、「辛さを押し殺している」人もいれば、「本当に辛さをそこまで強く感じていない」人もいます。念のため) ここで例として、父親を自死で亡くした息子(太郎さん)と娘(花子さん)を考えてみましょう。 花子さんは大きなショックを受け、日常生活に大きな支障が出ているが、太郎さんはそこまでの衝撃は受けていない。もちろん、大きなショックは受けているが、会社や飲み会、友人との趣味もこれまでと大きく変わらず行っている。 太郎さんは、兄弟である花子さんが大変な思いをしているのを見て、何とかしてあげたいと思い、花子さんの思いを聞く場を持ちます。 そして、どのような思いを抱えていて辛いのかを理解しようとします。 これに対して、花子さんが「自分はこのようなことが辛い、悔しい、苦しい」と胸の内を吐露しますが、太郎さんは「なぜこれだけ辛い、悔しい、苦しい」かが理解できません。 理解できない状況に直面したときに、支える人の話の持って行き方は2つです。 1つは「相手の立場になって考える」、そしてもう1つは「自分の立場から考える」です。 「相手の立場になって考える」ことが慣れていない人や、今回の例の兄弟のような場合は、「自分のほうがうまく乗り切れている=自分の考え方が正しい」と思い込み、「自分の立場で考え」てしまうのです。 そして太郎さんはこう言ってしまいます。 「そうか、花子、辛いよな。でも、自分だったらこう考えて毎日を過ごしていて何とか乗り切っているよ」 太郎さんは「自分が考える乗り切る物事の考え方を教えてあげた。花子にもとてもよかっただろう」と思います。 しかし、花子さんは「太郎は自分の考えを言ってくるだけで、私の目線で物事を見てくれなかった」と失望を深めます。 「100%の善意」であっても、無理解の行動は助けにならない 上記の例の場合、花子さんは「たった一人の兄弟である太郎は自分のことを分かってくれない。いや、分かろうとする気がない。相談しても無駄だ」と孤立を深めてしまいます。 そして太郎さんは「せっかく時間を割いて話をしたり、アドバイスしたのに花子は理解したり行動する気がない。これ以上話しても無駄だ。あとは専門家の領域だな」と思い、ある意味「見放して」しまうことさえあります。 このように、いくら太郎さんが善意があって取った行動であっても、相手の目線で理解しようとせずに、「自分だったら」と言い続けているのでは、時間を割いて話を聞いたり話をしたりしても、助けにはなりません。ひどい場合だとむしろ有害になることもあります。 「同じ兄弟で、同じ状況なのに、自分はこうやって頑張っている。君は甘えているだけだ」と責める 「僕にできることは何もないので、後は医者やカウンセラーにでも行けば」と言い、これ以上助けようとしない 話には付き合うが、実際は聞き流しているだけで、全く共感する気がない。時間を割いて話を聞いたという「形」があれば、それで役に立ったと思い込む もし、あなたがこのような行動をとっていると自覚するのであれば、いますぐ修正すべきです。 苦しみを同じ質量で受け止め、今日生きてくれていることに感謝する 先ほどの太郎さんと花子さんの例をもう一度引っ張り出しましょう。 太郎さんはどうすればよかったのか。それは「自分だったら」という前提を全て捨てて、「花子さんの苦しみ」に目を向けて、花子さんが感じる重さで苦しみの質量を受け止め、理解しようと努力し、共感することがスタート地点です。 言葉を並べるだけでなく、心から共感したうえで、「そうか。それだけ苦しいのか、悔しいのか、辛いのか」というだけでも花子さんはずいぶんと救われます。 そのうえで、そんな苦しい日常を送っている花子さんに「苦しみに耐えて生きてくれてありがとう」と感謝を伝えてはいかがでしょうか。 自死遺族の苦しみは「自分も自死したくなる誘惑」「朝起きると絶望が待っている」「救えなかった自分をひたすら責める」といったもので、これまでの人生で最も辛い体験だったという人がほとんどです。 そんな苦しみを四六時中抱えている人に対しては、人と比較されたり、立ち上がれない自分を責めたり、絶望したりという感情の中で暮らしています。 少しでも良い感情、暖かい感情が伝わるように思いを伝えましょう。
自死遺族の話を聞くときは、話を先回りしない | シンパス相談室
仕事においては先読み力は大切な能力です。しかし、自死遺族と対面してその話を聞くときは、先読み力は無価値どころか、有害なものになりかねません。 以下でご説明します。 先を読みすぎる=結論待ちになる 先読み力とは、相手が何か発言した際に、その後どのような話の流れになるか、何を発言すればよいかを察知する力です。 仕事においては、社内や顧客のニーズを正しくくみ取って、先回りして対応していくという意味では大切な能力です。 しかし、自死遺族に対峙するときに、この能力を発揮させすぎると「結論待ち」になってしまい、自死遺族の辛さへの共感力が弱まってしまいます。 例えば、自死遺族のAさんがが「辛い」と言ったとしましょう。 そして、この話を聞いている方が「自死遺族が辛いというと、特にBについて辛いはずで、Bの辛さはこの原因からきている。そしての辛さの周辺要因を一つずつあげていき、最後はCに対する怒りをぶつけるのではないか。だから、私はCに対する怒りをぶつけた際にそれに共感するのが役目だな」というように、話の流れを先読みしてしまったとします。 話を先読みしてしまうと、Aさんの話は全て、最後の結論にたどり着くまでの「仮説の正しさの証明」になってしまいます。 つまり、話を受け止めるのではなく、自分が立てた仮説が順番に正しく進んでいくかを確認するだけの行為になってしまい、心が動かなくなるのです。 心が動かないと、出てくる発言も薄っぺらいものになってしまいがちです。 ちなみに、経験豊富なカウンセラーだったり、高齢で様々な経験を積んできた人であっても、相談相手の話を「自分が考える自死遺族像」に落とし込んで、話を先読みして結論待ちになる人もいます。 経験があるのはよいことですが、経験に依存して色眼鏡で物事を見るのはよくありません。 できるだけ先入観ゼロで話を聞く 特に初めて話を聞く相手であれば「自死遺族はこうだ」「こういう話になるだろう」といった先入観を持たないことは大切です。 「自死遺族はこういうことに苦しんでいる」という本を読んだとしても、その知識を使って話を先読みしてはいけません。 (なお、こうした本で役に立つのは、『これだけは言ってはいけない』禁句でしょうか) 先読みするのではなく、まっさらな状態で話を聞きましょう。 まっさらな状態で話を聞いて、相手の苦しみを自分の中で再現して、辛さを感じる、受け止める、一言一言の発言を頭の中で何度か再生してみましょう。 せっかく時間を割くのであれば、相手の話を楽に「流す」のではなく、相手にとって意味のある時間となってほしい、と思うはずです。 そうであれば、先読みして「楽」をしないことです。 繰り返し同じ辛さを言う人に、対応するための先読み力はあり 例外ですが、「毎度同じ辛さを言ってきて、毎度同じ対応することが求められている」「対応するのに疲れている」場合は、先読みはありです。 例えば、「仕事から帰ってきたら配偶者が毎度同じ自死遺族としての苦しみを言っている。いつも心を動かしていたら支える側の精神が持たない」「毎度同じ反応をすることが安心感につながる」といった場合です。 こうした場合は、相手の話を聞きながら「先読み」して、予定通りの話の流れに対して、予定通りの反応で返すようにします。 自死遺族を支える側は、自身の日常を過ごしながら、家族を支えるというある種の「難事業」に挑んでいます。 できることもあれば、もちろん、キャパシティー的にできないこともあります。 ただ、「辛い場面にいる家族が最も求めているものは何だろう」と考えて、自分のキャパシティーと相談しながら、できるだけ真摯に向き合うことをお勧めします。
自死された方のご遺骨について | シンパス相談室
自死遺族の方が、自死された方を見送り、その後ご遺骨をどうすべきか悩まれてしまうことがあります。 以下では、個人的な経験についても踏まえながらご説明いたします。 急いで埋葬しなくていい。自分の心に従う 自死により亡くなった方のご遺骨について悩まれている方は、似て非なる悩みをお持ちであることが多いです。 例えば、関係が良好だったご家族がが自死された場合、ご遺骨を埋葬する踏ん切りがつかない方は多くいらっしゃいます。 「埋葬してしまうと、愛する人が本当にいなくなったことを認めてしまう気がする」 そうおっしゃった相談者の方もいらっしゃいます。 また、家族の間でご遺骨の埋葬を早く進めたい方、逆にまだ埋葬したくない方で意見が割れることもあります。 当相談室では、自死遺族となられたご家族の全員が「埋葬してもよい」という心境になるまで待った方がよいとお伝えしています。 一度埋葬してしまったら、その後再度埋葬しなおすことはかなりの労力がかかりますし、埋葬方法(例えば海洋散骨など)によっては埋葬しなおすことが不可能となります。 先祖代々のお墓があれば、そこに入れるのがよいのか、または故人の性格や希望などを考慮したうえで別な埋葬を考えるべきなのか。 こうしたことに冷静に向き合える自死遺族の方は少ないでしょう。愛する人の自死による感情の荒波の中にいて、埋葬のことまで考えを向けられない方も多いのです。 葬儀を終えたから、49日が過ぎたから、1年が経過したから、というように何かの節目で「早く埋葬したほうがよい」という圧力が、別な自死遺族からかかることもあります。 しかし、一般的な区切りと、それぞれの人の心の区切りのタイミングは必ずしも一致しません。 世間の尺度に無理に合わせることはありません。急ぐこともありません。本当にもう埋葬してもよいというタイミングになるまで、お手元にご遺骨を置いて置かれるのがよいのです。 ご遺骨に毎日語り掛けることで、愛する人の死を受け入れたという方もいらっしゃいます。 また、自分が亡くなるまで生涯ご遺骨を手元に置いておかれる方もいます。 どう埋葬したいのか、したくないのか。 一度決断してしまうと、取り返しがつかないことです。 よって、他の誰かの言うことに従うのではなく、自分の心に従いましょう。 手元に置いて置けないが埋葬したくない場合 もし、手元にご遺骨は置いて置けないが、埋葬したくないという方は、ご遺骨の一時預かりサービスを利用するのがよいでしょう。 墓苑などが、安価な費用でご遺骨を預かってくれます。 なお、このサービスの多くは、墓苑の集客活動の一環として行われることが多いですが、ご遺骨を一時的に預かってもらったからといって、その墓苑と契約をしなければならないわけではありませんのでご安心ください。 ちなみに私は、首都圏の某墓苑のサービスを利用して、非常に安価な金額で、自死で亡くなった家族の遺骨を預かってもらいました(なお、預かり期間終了後、その墓苑とは契約していません)。 ご遺骨を引き取らなくてもいい 関係が良好でなかった家族が自死した場合の話です。 どうしてもご遺骨を引き取りたくない、という方もいらっしゃいます。そうした場合は、火葬の際にご遺骨の引き取りを拒否すれば、火葬場により埋葬され、ご自身が埋葬する必要はなくなります。 ちなみに、ご遺骨の引き取り拒否は珍しいことではなくなってきています。 亡くなった方との関係が良好でなかった場合だけでなく、葬儀を簡素化したい、墓を作りたくないといった方々も率先して引き取り拒否をしています。 納得して決断を 心理的に不安定な状態で、慌ただしく事が進んでしまうと、大きな声を出す人の意見に引っ張られそうになります。 しかし、そこで「私はまだ決めたくない。待って」という勇気をぜひ持ってください。 一度埋葬してしまうと、基本的に取り返しのつきません。 そうなる前に、声をあげてください。 どんな決断であれ、納得した決断をされることをお祈りしています。
自死遺族の話を聞くときは客観的、俯瞰的になりすぎない | シンパス相談室
「客観的に物事を見る」「俯瞰的に考える」という言葉は、一般的にはよい意味で使われます。 しかし、自死遺族の話を聞く観点に立つと、諸刃の剣となるので注意が必要です。 自死遺族を支える人が、自死遺族の話を聞く際に注意頂きたいポイントです。 話を聞く相手の立場にのみ立つ 仕事の会議の様子を思い浮かべてください。 ある人が「A」という意見を言い、別な人が「B」という意見を、そしてまた別な人が「C」という意見を言ったとします。 こうした場合、会議でよく見られる光景は、出席者がA, B, C という3つの意見を比較検討し、分析やリスクを織り込んだ上で、一つの落としどころに集約していくことです。 こうした進め方は、ビジネスにおいてはよくある、客観的で俯瞰的な物事の考え方、決断の下し方です。 しかし、自死遺族と対峙するときは、全く違います。 今まさに自分が話を聞く方の立場にのみ立って、意見を聞くべきだと私は思います。 話を聞く方の苦しみ、悲しみ、後悔、怒りといった感情を、できるだけそのままで理解して感じるには、他の人の立場に立ったり、他の人の感情を再現しすぎてはいけないと思うためです。 例えば、自死した方の配偶者の方の話を聞いている際、配偶者の方と対立している義理の両親(自死した方の実の両親)がいたとします。 こうした場合、配偶者の方の立場に立ち続けないと、他の人の立場や苦しみなどにも理解が行き過ぎてしまい、話す内容がぶれてしまいます。 自死遺族同士で対立して辛い、苦しいと言っている方に、「対立している相手も同じように辛い、苦しいですよ」と返答することは、何の救いにもなりません。 しかし、話を聞く人の立場に立ち続けないと、周囲の人の感情にも共感してしまい、ついつい発言が右往左往してしまいます。 「主観的」になる もし、「客観的、俯瞰的なアドバイスが欲しい」「相手がある物事を解決したい」といった相談であれば、様々な人の立場に立ち、客観的、俯瞰的なアドバイスをすべきでしょう。 しかし、感情の荒波の中でいて辛い思いをしている方に、客観的、俯瞰的なアドバイスは役に立ちません。 相手の立場に立ち、相手と同じ思いを感じることが、自死遺族と向き合う第一歩です。 バランス感覚は不要です。まずは。相手になり切って徹底的に「主観的に」なりましょう。 「私の立場で理解してくれている」「私の側に立ってくれている」ということが、信頼の積み重ねになり、話すことによる価値が高まると感じます。 客観的な意見が未来永劫不要になるわけではありません。 しかし、客観的、俯瞰的な意見が必要になるのは、多くの場合相当先のことです。 それまでは相手の立場にのみ立ち続けましょう。
自死した人に対する怒りがあるなら、我慢せず出すべき | シンパス相談室
自死遺族は、悲しみと後悔だけに打ちひしがれているわけではありません。自分、または自分たちを残して自死したことに関して強い怒りを感じることもあります。 今回は怒りがテーマです。 自死遺族はなぜ自死した人に怒るのか 家族や近親者が亡くなった際に、怒りが表出するとはどういうことなのでしょうか。 これはいくつかの原因に分けられると思います。 1.精神的・肉体的な辛さ 「愛する人が自死」した場合であっても、「愛する人でない近親者が自死」した場合であっても、自死によって大きく感情が動きます。 これまで行えていたことが行えなくなったり、夜眠れなくなったり、精神的に強い圧迫を感じたり、体調不良が続いたり、といったことが起こります。 「自死するのは一瞬だが、なぜ自分は精神的、肉体的にこれほど長期間、辛い目に遭わされるのか」と思っても不思議はありません。 2.経済的な困難 例えば、働きに出ている旦那さんが自死して、専業主婦と子供が残されたとしましょう。 旦那さんの自死によって、専業主婦の奥さんと、子供の人生は大きな変化を余儀なくされます。 特に、実家を頼れない場合、奥さんは働きに出なければならないが、旦那さんが稼いでいただけの収入を得ることは難しいことが多いです。 そうなると、子供の進学といった進路にも大きな影響を及ぼします。 諦めることも多くなるでしょう。 さらに、家賃が払えなくなり今住んでいる家や地域から離れなければならないこともあるでしょう。 「精神的、肉体的に辛いだけでなく、なぜ経済的にも追い込むようなことをしてくれたのか」と怒りを覚えることは、ある意味当然といってよいかもしれません。 3.不当な攻撃による被害 夫が亡くなった場合は、残された妻に対する夫の両親からの攻撃で、 逆に妻が亡くなった場合は、残された夫に対する妻の両親からの攻撃が分かりやすい例です。 「愛する息子(娘)が自死を選んだのは、配偶者であるあなたのせいだ」と攻撃してきます。 精神的、肉体的、または経済的に疲弊している人に対して、さらなる圧迫を加えてくるのです。 単に電話で攻撃してくるだけならまだしも、家に押し掛けてきたり、訴えるぞと脅したり、遺産をよこせと圧力をかけてくるなど、ただでさえしんどい状況をさらにしんどくします。 「なぜ、私を思いやる遺書を残すなどして、私を義理の両親から守ってくれなかったのか」という強い怒りを感じても不思議ではありません。 自死遺族の怒りを許容しない人と触れ合わない こうした怒りに対して、「亡くなった人に対してそういう感情を持つこと自体間違っている」「死人に鞭を打つようなものだ」「怒りを収めてあげて」というように言ってくる人がいます。 これは、一見正論のようにも見えますが、自死遺族に対して「怒りを我慢しろ」「感情を押し込めろ」「怒りを出すな」といっていることです。 ただでさえ、はち切れそうな感情の人に対して、建前上の正論、倫理を並べて、さらに我慢をしろというわけです。 この裏には、「怒りを出すのはよくない」といった建前に加えて、「こうした怒りを出されても自分はどう対処していいか分からない」「面倒だから対処したくない」「真剣に向き合うと時間もエネルギーが取られて大変そう」という思いが隠れています。 平時においては、「怒ることはよくない」というのは倫理的かもしれません。 しかし、火事場において「怒りを出さないと生きていられない」人に対して、「怒ることはよくない」ということは何の救いにもなっていません。 むしろ、「この人も一般的なことを言って逃げるだけで、私の感情に向き合ってくれないのか」と失望を深めるだけです。 火事場において平時の倫理を問う人は、本当にその人のことを考えていない、本当に意味で倫理的な人ではないのです。 こうした人たちと触れ合うことは、結果として我慢を強要するよう仕向けられるだけなので、精神をすり減らします。 もし身の回りに、我慢を強要する人がいたら、接触を減らしたほうがよいでしょう。 怒りを出すことは大切 自死した人に対して怒りがあるなら、ちゃんと怒りを出す場を作りましょう。 おそらく、身を焼き尽くすのではないか、というくらいの怒りがあるはずです。 怒りを聞いてくれる親族、友人、カウンセラーに「自分はなぜ怒っているか」を口に出して話しましょう。 そして、聞く方は「平時の倫理」を問うのではなく、「怒りを受けとめて、どれほど深い怒りなのか、自分の中で感情を再現」してみましょう。 そして「あなたがどれだけ辛い思いをしているか」を共感とともに言葉で伝えましょう。 自分が自死遺族となって、最後に残る感情が「怒り」だった、という人も少なくありません。 しかし、「怒るなんておかしい」「怒りを自分で消化しないと」と、内なる感情を否定すると、自分で自分を追い込むことにつながります。 怒ってもいいのです。怒りをちゃんと出して、聞いてもらいましょう。 それが、身を焼き尽くす怒りを乗り越える第一歩です。
自死遺族に対する「しっかりしなきゃ」という暴力 | シンパス相談室
自死遺族は、理解のない人から「こんな時こそ、お母さんなんだからしっかりしなきゃ」「ご家族を支えるためにしっかりしてくださいね」など、「しっかりしなきゃ」と言われることがあります。 これは、控えめに言っても善意の形を借りた言葉の暴力といってもよいものだと思います。 「しっかりする」とは何か? そもそも、しっかりする、とは何でしょうか。 まず、「しっかりしなきゃ」という発言をする人は、実際の所、そこまで深く考えずに「激励」の意味を込めて発言しているのだと思います。 (深く考えたら、「しっかりしなきゃ」などと言えるはずがありません) あえて「しっかりしなきゃ」を分解すると、「愛する人の自死に直面してもなお、配偶者、子供、親族など支えるべき人を支えていられるように、強くあれ。落ち込むな」ということでしょうか。 しかし、多くの自死遺族は、人生において最も辛い日々を過ごしているわけです。 しっかりしなきゃ、とは「人生において最も辛い状況にある人に対して、『強くあれ、落ち込むな』ということ」だと考えると、あまりに残酷で理解がないと言ってよいかと思います。 うつ病の人に対して、「頑張れ」というのと同じくらい残酷な言葉の暴力です。 よって、自死遺族は誰かから「しっかりしなきゃ」などと言われても気にする必要はありません。 もし「しっかりしなきゃ」という人がいれば、その人は頼れない人、悲しみや嘆きを聞く気がない人、無理解のまま言葉の暴力を気軽に言う人だとラベリングしてよいかと思います。 頼れない人は、最も辛い時期に会ったり話をしたりすべき相手ではありません。 自死遺族は言われなくても、しっかりしなきゃと思っている 家族のために、自分のために、思うような毎日を過ごし、「しっかりしなきゃ」と思っているのは、他でもない自死遺族本人です。 しかし、「しっかりしなきゃ」と思うだけで精神が立ち直る、強い感情をやり過ごせるほど自死遺族の悲しみは浅くありません。 「しっかりしなきゃ」と思えば思うほど、悲しみの底にいて活動的になれない自分との落差に苦しむことになります。 感情を押し殺して、しっかりしているように見えたとしても、それは感情にふたをしているだけです。 よって、必要なのは共感と傾聴です(このサイトの最重要キーワードです)。 支える人は、悲しみの底にいる人に「自分は同じ経験をしたわけではない。でも、もし立場が逆だったらどんな感情になるだろう」と考え、心を動かし、悲しみの大きさを感じ、理解することが必要です。 感じて、理解したうえで、その感情を言葉にしてみましょう。 間違っても、安易な激励や励ましをすべきではありません。 しっかりしなくていい 悲しみ、苦しみ、後悔、怒りといった感情を抑え込む必要はありません。 しっかりしなきゃ、という名のもとに感情を押し殺すと、強い感情が慢性化してしまいます。 一番辛い時期は、しっかりすることではなく、荒波にようにやって来る「強い感情」に向き合うだけで十分です。 しっかりしなくていいです。いや、逆に、しっかりしようと頑張りすぎてはいけません。 支える側の家族からすると、しっかりしなくてもよい状況を作ってあげられるのが最良です。 長い時間を一緒に過ごして話を聞いて共感するとともに、生活面に関する不安をできるだけ取り除いてあげることです。 もちろん、完璧にはできません。経済的な不安があったり、逆に一緒に過ごす時間が限られたりします。 同居している家族、同居していない家族、信頼できる友人、カウンセラーなど、使えるリソースはフル動員して、不安が少ない状況をつくって「しっかりしなきゃ、なんて思わなくてもいい」と言ってあげられるとよいですね。 全ての自死遺族と支えるご家族をいつも応援しています。
愛する人の自死に「ふたをする」ということ | シンパス相談室
愛する人の自死に向き合うことは辛すぎる。よって、「心にふたをして過ごす」多くいます。 今回は、心にふたをすることの意味について考えてみたいと思います。 愛する人の自死にふたをするとは 愛する人が突然自死でいなくなってしまった。人生において最大の悲しみの一つであるこの瞬間に、多くの人は「何故自死してしまったのか」「どうすれば防げたのか」「自分の何が悪かったのだろうか」「どれだけ苦しかったのだろうか」など、自死した愛する人について、自分との関係性について、自死の状況について深く思いを馳せます。 しかし、自死に関して別の向き合い方があります。それは、「心にふたをして過ごす」ことです。 1.辛すぎる 自死に関してふたをする理由の一つは「辛すぎる」からです。 愛する人が突然いなくなったことの悲しみ、後悔、怒りといった感情をそのまま受け止めること、そして心を掘り下げていく作業を行うには精神的に耐えられない。だから、今は「心にふたをする」ということです。 2.他に守るべきものがある 子供だったり、経営する会社だったり、自身のキャリアだったりなど、「今後の人生を考えると、今は別なことを守らねばならない」という状況はあります。 特に、配偶者を亡くした夫や妻は、収入を得つつ残された子供を育てていかねばなりません。 そうなると、「自死の悲しみは後回しにして、今置かれた状況を何とかしないと」と「自死に向き合うことを後回しにする」ことはよくあります。 自死について考えることを後回しにして、時間が経過しても、悲しみや辛さがなくなるわけではない 強い感情で長い時間経過すると、感情は穏やかなものに変化します。 しかしそれは、「ある一定期間、長い時間を取って、自死について自分の感情に向き合って辛い思いをそのまま受け止めて苦しんだ」後の話です。 「自死と向き合うことを、諸事情から後回し」にした場合、愛する人の自死に関する感情は穏やかにはなりません。 例えば、何十年後になって自死に関してのふたを少し開けただけで、自死が起こった当時と同じだけの質量の感情が湧き出てきます。 私が尊敬するミュージシャンに、ロックバンド「X Japan」のリーダー、Yoshikiさんがいます。 Yoshikiさんは11歳の時に父親を自死で亡くしています。 Yoshikiさんの自伝によると、葬儀の後からは家族は何もなかったように過ごすことになり、自死について語られることがなかったとあります。 このような状況下、つまり自死について正面から向き合える状況がなかったため、Yoshikiさんは、自死によって生まれた強い感情を音楽に向けることで「生き延びた」のだと思います。 しかし、父の自死に向き合うことを状況的に許されなかったYoshikiさんは、50歳を過ぎた今でも、インタビューで父親の自死について語る時に涙を流しています。 Yoshikiさんの中には、お父さんが亡くなったときの強い感情がそのまま心の中にあるのではないかと思います。 11歳の少年が、父の自死について語る場がなかった、そしてその強い感情を別な形で発散した結果、X Japanの音楽が生まれました。しかし、幼いYoshikiさんの心境を思うと、なんと悲しく辛いことだろうと思います。 後回しにしてもいい。でもいつかは向き合う時が来る もし、自死に対する悲しみや怒りにそのまま向き合うことができる、同じ立場の家族と語り合えることができる(その余裕がある)のであれば、ぜひそうするべきです。 しかし、状況がそれを許さない場合は、後回しにしてもよいのだと私は思います。 ただ、愛する人の自死について深く思いをはせること、強い感情と向き合うことは永遠に避けられるわけではないのもまた事実です。 永遠に向き合わないようにすると、いつまでも強い感情をふたをしている状態が続くこととなり、何かの拍子で感情が噴出する、つまり感情のコントロールが難しくなります。 多くの人にとって、感情をうまくコントロールしにくいのは、大変生きにくいことです。 よって、「今は向き合わない」と決めたとしても、「いつかは向き合う」という自負を持って日々を過ごしてはいかがでしょうか。 自死に関して向き合うことは辛く悲しく怒りたくなることですが、「向き合わない」よりも「向き合う」ことが不幸ではない、と私は信じています。 向き合うからこそ得られるものもたくさんあるのです。
自死遺族を支える人は常に肯定的でいるよう心がける | シンパス相談室
自死遺族を支える人は、自死遺族が発する悲しみ、辛さ、怒りといった強い感情に一緒に押し流されてしまいがちです。 支える人も自死遺族と一緒に自暴自棄になってしまうことさえあります。 しかし、支える人は常に肯定的でいるように心がけるようにしましょう。 肯定的でいるとはどういうことか 自死遺族の大前提として、残念ながら愛する人は再び戻っては来ません。しかしながら人生は続きます。 自死と言う別れ方、そして愛する人がいない人生を生き続けることに大きな辛さ、苦しみがあります。 そうした自死遺族に対して肯定的でいる、とはどのようなことでしょうか。 これは言うのは簡単ですが、少し掘り下げると大変難しい問いですし、人により定義は違います。 以下は私の考えです。 「愛する人がいない人生など、生きる意味がない」「辛い、苦しい、悔しい、悲しい」と言う自死遺族に対して、肯定的でいるということは、次の2つではないかと思います。 1つめは、「愛する人を失ってもなお、あなたの人生そのものには意味がある」という、自死遺族自身の生そのものを肯定するということです。 2つめは、「あなたがいると、私は幸せだ。私(支える人)の人生を幸せにしてくれるあなたの人生には意味がある」という、自死遺族を支える人の視点で生を肯定するということです。 もちろん、これに対しては容易に反論されてしまいます。 「愛する人がいない人生など意味がない」「あなたは幸せかもしれないが、私は不幸だ」といった反論です。 しかし、こうした反論に対して揺るがず、一貫して「あなたの生そのもの、私を幸せにしてくれるあなたの存在に意味がある」と言い続けること、これが「肯定的でいること」ではないかと私は思います。 自死遺族がどう考えても肯定的になれないからこそ、支える側が常に肯定的でいること、否定的にならないこと、生を肯定することが必要です。 そして当然といえば当然ですが、肯定的なメッセージを常に言葉で伝えるようにしましょう。 「言葉に出さなくても分かってもらえる」という人もいるかもしれませんが、言葉に出さないと伝わなかったり、言葉に出すとさらに多く伝わります。 「言葉に出そうとすると、否定的なことを言ってしまいそうになる」のでなければ、積極的に思いや愛を言葉で伝えるべきです。 肯定的でいられない時は、支える人が疲れている時 「今日も頑張って愛する人を肯定的に支えよう」「一貫して肯定的なメッセージを送ろう」と思っても、自死遺族による辛い言葉や怒りを多く吸収してしまうと、支える人も疲れてしまいます。 以前に執筆した「自死遺族を支える家族は、自身が燃え尽きないよう注意する」の記事でもご紹介したとおり、一生懸命になりすぎて常に一緒にいることで精神的な逃げ場がなくなります。 それでも頑張ろうとすると、つい「支える私だって大変なんだ」「いい加減にしてほしい」など、怒りの言葉が出てしまいます。 普段ならやり過ごせる、自死遺族のふとした言葉や態度にイライラしてしまう時は、まずは自分が疲れていないかどうか確認しましょう。 そして、疲れているのであれば、いったん離れて自分のための時間を取りましょう。 外でコーヒーを飲むでもいいですし、一人で映画やドラマを見るのでもいいですし、友達に会うのでもいいです。 自分がリラックスできること、楽しいことをしましょう。 自死遺族を支えることとは別なことをすることで、精神的な疲れを和らげ、再び肯定的に支える気持ちになれます。 肯定的に支えるのは長い旅のようなもの。短距離走ではない 大切なのは、長期間安定して支え続けることです。短期間だけ頑張って燃え尽きては意味がありません。 支える側が取り組んでいるのは、100メートル走ではなく、長旅であると理解しましょう。 長旅であるからこそ、一日中観光をすることもあれば、数日休むこともあります。 これら全てが旅であるように、直接的に支えていない時であっても、それは大きな視点で見ると「支える『旅』」です。 肯定的であるべく努力し、エネルギーを使い、疲れてエネルギーが減ってきたらイライラする前に回復させ、そして再び努力に向かう。 こうした繰り返しを粛々と続けることが、肯定的に支えるということではないかと思います。