自死遺族・支えるあなたを、支える
ブログ

友人

自死遺族に対する「善意」の押しつけは有害 | シンパス相談室

「大変なことがあったが、適切な外部の助けを得て、『回復』して立ち直り、前向きに生きていく」。 よく映画やドラマで見る光景です。映画やドラマでは主人公に対して、友人や家族が「最もよいタイミングで、最適な助けの手」を差し伸べていますが、実際のところ「最もよいタイミング」「最も良い方法」で助けの手が差し伸べられることは、ほぼありません。 それなのに、「私ならできる」と勘違いする人は後を絶ちません。     「自分なら助けられる」という『善意』 人生多かれ少なかれ、それなりの苦難を乗り越えてきた、という自負を持つ人は多いはずです。年を重ねるほどに、苦難に直面する機会も増えてくるため、その傾向は強まります。 いくつもの苦難を乗り越えてきた、と思っている人の一部は、このように考えます。 私は自分の努力で苦難を乗り越えた経験がある。 私はどうすれば苦難を乗り越えられるかを知っている。 だから、私は他人の苦難を乗り越えられる手助けができる。 そして、自死遺族に対して、『善意』から以下のように話してきます。 私の人生で、こんな辛いことがあった。 そして、私はこのように乗り越えてきた。 乗り越えるときに、このような助けが役に立った。 私はあなたの辛さがよくわかる。助けたい。乗り越え方も知っている。だから、こういう助けを提供してあげる。 実際は、苦難を乗り越えた経験の「自分語り」が多く、ここまで論理だてて話をされることはありませんが、おおまかにいうとこのような話です。 自死遺族の多くは、こうした話を聞くと「相当な違和感」を感じるはずです。その違和感をまとめると以下になります。 あなたと私は別の人間だ。 別な人間で、辛さについて理解できているとは思えないのに、なぜ乗り越え方を知っているのか。なぜ今がタイミングと分かるのか。 あなたの経験に基づく考えや方法がなぜ役立つと思えるのか。 そして、多くの場合は以下の点もあるはずです。 そもそも、あなたは自死遺族ではない。 自死遺族でないのに、なぜその辛さがわかるといえるのか。 冒頭で「善意」と書きましたが、この「善意」は無知と傲慢さから来る、「押しつけがましい善意」です。     「私のサポートで回復させた」と善人面したいだけ こうした「押しつけがましい善意」の持ち主は、相手の自死遺族の感情や辛さを「いったん自分の中で再現してみる」ことなく、自分の思い込みから来る考え方や方法をそのまま押し付けてきます。相手の立場になって考えることができないのです。 そして、「私のように考えればいい」「私のように行動すればいい」と勧め、それに対して自死遺族が反論すると、暗に「それが出来ないのはあなたの努力不足」と言ってくることもあるようです。「望んでもいない助けの手を勝手に差し伸べてきて、意見すると勝手に気分を害する人」といえば、その異常さは分かるのではないかと思います。 こうした人は、「大変なことがあったが、適切な外部の助けを得て、『回復』して立ち直り、前向きに生きていく」というストーリーにおいて、自分こそが「適切な助けの手を差し伸べる『善人』」だ、と思い込んでいます。 もちろん、こうした「押しつけがましい善意」は有害でしかありません。自死遺族一人一人の辛さを理解することは、同じ経験をした人でも簡単ではありません。自死遺族経験を積んだカウンセラーでもそうです。苦しんでいる自死遺族から話を聞いた経験のない人が、まったく別の苦難を乗り越えた経験に基づいて「できる」というのは無理があります。     一歩引いて対応し、信じて待つこと では、「押しつけがましくない善意」で対応するには、どうしたらよいかですが、「一歩引いて対応する」のと「待つこと」ではないかと、私は考えます。 まず、「一歩引いて対応する」ですが、サポートする側の人は自分の能力を過信せずに、状況を俯瞰するのが大切です。 自死遺族の苦しみを理解したいと思うが、その辛さの深さ、大きさをどれだけ理解できるは分からない。 自分がサポートしたところで、自死遺族にとって助けになるかどうかは分からない。 一番大切なのは、「自分が関わることで、自死遺族をさらに辛い気持ちにさせないこと」。 自死遺族の話をよく聞くこと。話すのは自分ではなく、自死遺族。 自分が自分が自死遺族に対してできることも、能力も限りがある。自分はスーパーヒーローではない。 次に「信じて待つこと」ですが、これは以下の点が大切です。 自死遺族が、「自死遺族になる前」に戻ることはない。一見そう見えたとしても、心の中は全く別になっている。 (関連記事) 自死遺族は「回復」するのでなく「自分を作り直す」 | シンパス相談室 自死遺族としての自身を再構築するのは、想像を絶するほどの困難が伴う。 サポートする側ができることは限定的。関わることで状況が劇的に変わることはない。 しかし、何もできないわけではない。「話を聞く」「共感する」だけでも助けになる。 短期的にエネルギーを集中的に投下するのではなく、長期的に穏やかに支え続けるのが「サポートする」ということ。 サポートする側は主役ではない。主役は自死遺族。サポートし、信じて待つ。 自死遺族の辛さは、生涯に渡り付き合わねばならないほどの辛さです。「「自分は微力だが、相手の立場に立って謙虚に考え、支え続けて、待つ」。善意の押しつけの代わりに必要な態度は、このようなものではないでしょうか。

自死遺族の回復は強制されるものではない

自死遺族が「知人友人などの突然死」に直面した時に気を付けるべきこと

若い時代を一緒に過ごした友、かつて職場が一緒だった友、近所に住んでいてよく会う友。 「またね」といって別れた後に、また近いうちに会えることを疑っていない。 しかし、事故などで友人は突然に旅立ってしまった。 こんな状況に直面した自死遺族についての話です。     自死遺族は「感情の皮」が薄くなっている 突然の友人の死は、誰にとっても辛いものです。 本当に亡くなったことが信じられないし、またいつでも会えるような気がしてならない。実感がないし、そして「実感を『感じたくない』」という気持ちもある。葬儀に出ても、友達の死ではなく、なんだか別なものに直面しているような気がする。 しかし、あるタイミングで「友人が亡くなった」ことが実感できるときが来ると、「もう会えないことの悔しさ、悲しさ」「過去の美しい思い出」「客観的に見れば自分がどうしようもなかったとしても、防ぐことはできなかったのかという自責の念」が出てきます。 「ご家族はもっと大変な思いをしているのに、葬儀の際はちゃんとされていた。それなのに自分は泣いてばかりいる」とか、「同じくらい親しかった別な友達は大丈夫そうにしているのに、自分は打ちひしがれている」、また「仕事も家事もできなくなってしまった」という方もいるかもしれません。   そして、自死遺族にとっては、この辛さというのは別な重みを持ちます。自死で愛する方を失った後に、自死であってもなくても、再び大切な方との別れが来てしまったという「悲しみの噴出」と、「自死遺族となった後の一番辛い時期の感情に引き戻されるのではないか」という恐れがあります。 自死遺族の方から話を伺うと、「誰かを亡くす」ことに関して感情の皮が薄くなっている方が多いようです。自死遺族になる前に経験する「友人の死」と、自死遺族になった後に経験する「友人の死」では、その重みや辛さが違うとおっしゃる方もいます。     辛さに対する特効薬はないが、話すこと、話をきいてもらうことはできる 自死遺族の辛さに対する特効薬がないのと同じで、自死遺族が新たに友を失ったときの特効薬はありません。過度の不眠や食欲不振など、健康状態が著しく悪くなる場合は病院に行くべきですが、それ以外の場合は病院に行っても対処の仕様がなかったり、安定剤のような薬を出される以外に何の対処もないことが多いようです。 ここでできることは「自分の感情を話すこと」と、「それを誰かに聞いてもらうこと」です。 例えば、昔からの大切な友人を事故で亡くした女性が、夫に「自分はどう辛いか。何か悲しいか。どういう感情が噴出しているか」を話すことです。 友人は亡くなられているので、話しても状況が変わることはありません。しかし、自分で何が辛いか、何が悲しいか、今何を思っているか、何が悔しいのかを、思ったままに話すだけで、心を落ち着けることができます。順序立てて話す必要もありませんし、話している内容に矛盾があっても問題ありません。思っていることを、思ったままに話す。それを聞いてもらい、辛さや悲しさを理解・肯定してもらうことに価値があります。     話を聞くときの注意点 辛い状況にいる家族や友人の話を聞く人は、以下の3点に気を付ければ、話し手の感情をいたわる助けになります。 「こうしたほうがよい」という手段や方法に関する助言、アドバイスをしない 「自分だったらこう考える」という考え方や精神の持ち様に関する助言、アドバイスをしない 「それは違うと思う」といった内容に関する指摘や反論をしない 良かれと思って、助言やアドバイスする人の多くは、「自分自身が自死遺族になった後で、友を失った経験もないのに、自分だったらこう考える」的なアドバイスをしたがります。しかしこれは、「パイロット免許がない人に、操縦のアドバイスをする」ようなもので、意味がないだけでなく、逆効果です。「楽になるような考え方ができるなら、もうとっくに楽になっている。そう考えられないから辛い」のです。 また、話している内容の矛盾点を尋ねたりすることも無意味です。話した内容をまとめて出版するわけではないのですから、始めに言っていたことと、後で言っている内容が違ったとしても別に問題はありません。また、例えば「亡くなった友人と一緒に、自分も旅立ってしまいたい」という発言に対して、「そんなことを考えるなんておかしい」「家族や子供がいるのに」と正論で反論することにも意味がありません。話している相手は、「どれほど辛いか」を分かって欲しくて話をしているのであって、道徳や倫理基準についての話を聞きたいわけではないのです。 「そんなことを口にするなんて、本当に辛いよね。悲しいよね」「あなたが思うことを、100%理解はできないかもしれないけど、どれだけ悲しくて悔しいか、分かるよ」というように、相手がどんな発言をしても、理解を示して受け止める。聞き手が注意して、こうした傾聴を数十分、数時間するだけで、相手はとても楽になる場合が多いです。 支える側は、ここが踏ん張りどころですし、最も頑張るべきタイミングだと思って傾聴に徹してあげてください。

自死遺族が「知人友人などの死」に直面した時に気を付けるべきこと

自死遺族が1日を乗り越えることがどれだけ大変かを理解する | シンパス相談室

  誰にでも平等に訪れる1日。この1日を「やり過ごす」ことが自死遺族にとってどれだけ大変か。 「自死遺族の苦しみ」と一言でまとめてしまうと漠然としてしまいますが、自死遺族にとって「1日をやり過ごす」ことこそが最も辛いことなのではないか。そう思い、書きました。     1日中、そして終わりなく続く 愛する人が自死した後、一般的にはさまざまな感情の大波がやってきます。 そして、その大波が去った後に自死遺族として最も辛い時間がはじまる。そう感じる方が多いようです。   朝、 目を開けたくない。ふとんから出たくない。部屋から出たくない。シャワーを浴びたくない。家族と会いたくない。服を着替えたくない。ちゃんとした時間に起きられない。自己嫌悪。 日中、 早く時間が過ぎて一日が終わらないかだけ考えている。食事も食べたくない。何もやる気がしない。家の外に出るのも億劫だ。ピンポンが鳴ったが出たくない。 夜、 なぜ明日という日が来るのか恨めしく思う。眠れない。ふとんの中でスマホを見ても気がまぎれない。このままでは明日も起きられない。焦る。 そして、朝も昼も夜も、自死した愛する人を思い出します。   自死遺族でない方は想像してみてください。「自死遺族が辛い」というのは、沸騰するような感情に身を焼かれ、活動ができなくなり、そのことにより自分を責める。そして、これが毎日繰り返されるということです。 このループからいつ抜けられるのかは、全く分かりません。すべきことがあっても、守らねばならない人がいても、達成したい目標があっても、できないのです。     「努力不足」ではない。もう努力しすぎるくらい努力している 自死について理解のない人の中には、「ご家族の方が亡くなられたとはいえ、いつまでもそれを引きずっているのは努力不足」だという人がいまだにいます。 自死遺族、という言葉が一般的になりつつあるので、口には出さないが、実は努力不足だと思っている人も少なくありません。 しかし、もちろん自死遺族が努力不足であるわけではありません。 例えば、「1日何もできない」「家事も仕事もできない」「生活リズムもめちゃくちゃ」という自死遺族がいたとして、その人は怠けているのでしょうか。 違います。 その人は「1日をやり過ごす」、いや「1日を乗り越える」という、辛く苦しい、そしていつ抜けられるか分からない苦闘に毎日挑んでいるのです。   「朝の来ない夜はない」という言葉があります。 しかし、「いつ朝が来るか」分からない状態で、辛く苦しい明日を迎えることの恐怖こそが、自死遺族が最も辛いことではないか。筆者はそう思います。     家族・友人は「1日を乗り越える」苦闘に共感する 人間は、「合格した」「賞を取った」「何かをやってくれた」「お金をたくさん稼いだ」「昇進した」というように、物事を達成したり、行動したりしたときに、賞賛や感謝の言葉が出てくることが多いと思います。 もしあなたの愛する家族・友人が自死遺族として苦しんでいるとしたら、あなたに対して「素晴らしい行動」を取ってくれることは難しいでしょう。 しかし、自死遺族にとって最も辛い「1日を乗り越える」ということに直面していることを忘れないでください。 「1日を乗り越える」辛さに向き合うことは、誰かから賞賛されることではありません。 賞賛されるどころか「生活リズムがめちゃくちゃ」「家事もやらず怠けている」などと言われることのほうが多いかもしれません。   しかし、毎日の辛さと真剣に向き合っていることこそ、賞賛に値するのではないでしょうか。 自死遺族となった家族や友人が、誰からも賞賛されない辛さを毎日、毎日乗り越えていることに思いをはせて、あなたならではの共感の言葉をかけてあげてください。

自死遺族が1日を乗り越えることがどれだけ大変かを理解する

自死遺族は「回復」するのでなく「自分を作り直す」 | シンパス相談室

大切な人の自死に直面した自死遺族が、以前と同じような日常生活を営めるようになった際、周囲の人は「〇〇さんは家族の自死から回復した」「立ち直った」と反応する場合があります。しかし、この「回復」「立ち直る」という言葉は、実は適切ではありませんし、大きな勘違いが含まれています。   自死遺族の「回復」についての間違った理解 回復の意味を辞書で引くと、「悪い状態になったものが、元の状態に戻ること」と記されています。 「回復した」と言われる自死遺族は、一見すると、以前と同じ程度の活動・仕事・学業ができるようになっているため、「回復」と言われがちですが、実は全く違います。 自死について理解のない人は、活動的になった自死遺族を見るとこのように想像します。 元の状態から、いったん活動が出来なくなったが、再び「回復して」回復前と同じに戻ったということです。 しかし、自死遺族の多くはこのような「回復」を誰一人として、していません。 活動量だけ見れば、元の状態と同じレベルに戻った、回復したように見えますが、自死遺族の中身は「回復して元の状態に戻った」のではありません。「活動ができるレベルに『自分を作り直している』」のです。   自分を作り直す 大切な人が自死によっていなくなった自死遺族は、多くの精神的困難に直面します。 自責の念、悔しさ、悲しさ、怒り、不安などです。 愛する人がいなくなった、そしてその愛する人が「自分が生きている理由」であったり、「自分が一番多くの愛情を向ける存在」であった場合は、自身の「生」を再定義しなければなりません。「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」といった問いと向き合わねばなりません。 こうした問いに逃げずに向き合い、苦しみながらも自分なりの「回答」を見つけた自死遺族は、再び生に向かいます。 *「回答」という言葉が本当に適切か自信がないのですが、ここでは「回答」とさせていただきます。 たとえ、同じだけの活動をしていたとしても、その方の中身は、苦しみ抜いた末に「新たに作り直されて」いて、過去と同じではありません。   気軽に「回復した」と言わないで欲しい 筆者がこの記事を書こうと思った理由は、自死遺族は努力すれば元の状態に「回復」する、と考える人が多数いるからです。 そこまで関心のない方にとっては、自死遺族が活動できる量が同じであれば「回復」でも「作り直し」でも、同じなのかもしれません。 しかし、その中身は「風邪をひいて、薬を飲んだら、『回復して』体調が戻った」という意味の「回復」ではなく、全く別な場所にたどり着いた「作り直し」であることを知って頂きたいと思ったのです。 よって、自死遺族の方に対して、「回復」という言葉を気軽に使わないほうがよい。そう筆者は思います。

自死遺族は「回復」するのでなく「自分を作り直す」

自死遺族は時間の経過とともにサポート役が変わる | シンパス相談室

突然ですが、ご自身の人生を振り返ってみてください。それぞれのタイミングで一番仲良しだった人を頭に浮かべてみてください。 小学校のとき 中学校のとき 高校のとき 大学のとき 社会人になったとき 30代になったとき、、、 多くの人の場合は、「一番仲良しの友達」はどんどん変わってきているのではないでしょうか。実は、これと同じことが自死遺族にも起こります。     否認から抑うつまでは「とにかく話を聞いてくれ共感してくれる人」 一般的に、愛する人の死を受け入れるためのプロセスは以下の5ステップと言われています。 否認 愛する人が亡くなったはずはない。生きているはずだ。亡くなったと認められない、というように「死を受け入れない段階」。 怒り 何故私を残して旅立ってしまったのか。何故私は止められなかったのか。何故周囲は気づかなかったのか、と「自死した方、自分、周囲に強い怒りを感じる段階」。 取引 自分もあの世に旅立ってもいいので会いたい、**を諦めるので戻ってきてほしい、と「何かと引き換えに愛する人を戻してほしいと感じる段階」 抑うつ 思い悩んだが愛する人は帰ってこないことに苦しむ、辛すぎて日々の生活に支障をきたす、というように「愛する人が戻ってこない現実に強く落ち込み絶望する段階」 受容 愛する人が戻ってこない現実を受け入れ、それでも自分の人生を歩むことを決意し受け入れる段階。 ちなみに、この5ステップが1ステップずつ、規則正しく順番にやってくる自死遺族は多くありません。例えば、「否認と怒りが一緒に来る」「否認と怒りと取引が一緒に来る」といった具合です。よって、1ステップずつやってこないからといって心配する必要もありません。   さて、筆者の経験では、「否認~抑うつ」と「受容」では、友人・話し相手・カウンセラー、そして家族に求める能力は異なります。 まず「否認~抑うつ」の段階では、「とにかく話をよく聞いてくれ、反論や否定せず、辛さを共感してくれる」のが大切な能力です。辛く苦しい精神状態では、自分の感情を吐露することさえ大きな壁のように感じる人は少なくありません。こうした人に対して、「**をしたほうがよい」「そういう考えはよくない」とアドバイスや『助言』をすることは望ましくありません。必要なのは、相手の言葉をスポンジのように吸収し、それを自分の中で再現して相手に寄り添うことです。これこそが必要な能力です。 参考記事 ・自死遺族に対する「アドバイス」に価値はない     受容の段階では「よい影響・エネルギーをくれる人」 「否認~抑うつ」を経て、「受容」の段階にいると感じる人は、自分を支えてくれる相手に求める内容が変わってきます。 受容の段階では、「愛する人がいなくなったことはとても悲しくて辛い」という感情と、「活動的な自分に戻りたい」という感情が併存しかかっています。 「併存できている」のではなく、「併存に向かっているが、完璧に併存できているわけではない」という意味です。ここを読み間違ってはいけません。   この段階で支える側として必要なのは、「悲しくて辛い」という感情を理解し、そのうえで「前向きになれる影響・エネルギーを渡す」ことです。 回復してきたように見えると、急に「**したほうがよい」とアドバイスしてくる人がいますが、そういうアクションは単なる押し付けで逆効果です。「**したほうがよい」「**すべき」という言葉を出さずに、「よい影響を与えたり、活動するエネルギーを与えられる」人が必要です。   「よい影響を与えたり、活動するエネルギーを与えられる」というのは、とても漠然とした言葉ですが、何をもって「よい影響」「エネルギー」とするかは大きく異なるため、ひとまとめにお伝えできないのです。 例えば、「同じ自死遺族で、辛い状況から立ち直った方と話してエネルギーをもらいたい」という人もいれば、「一緒にできる行動を、さりげなく誘ってほしい」という人もいます。「辛さについて話すのではなく、以前していたような雑談を友人とすることでエネルギーが出る」「昔からの趣味に徐々に戻っていく後押しがほしい」という方もいます。千差万別なのです。   そして、ここで理解しておきたいのは、「否認~抑うつ」のステップで必要な資質と、「受容」で必要な資質は違うこと、そしてそれは悪いことではないことです。 例えば、「否認~抑うつ」を支えてきた人が、「受容」のステップではうまく役割を果たせないことがあります。これは、必要となる資質の属性が異なるためです。よって、これまで長らく支えてきた方が「受容の段階でサポートできない自分はだめだ」などと落ち込む必要はありませんし、お門違いの属性を身につけようと努力することもありません(そもそも努力して身につけられるものでもありません)。 そして、「否認~抑うつ」の間、何も助けにならなかった人、積極的にサポート役に回ってくれなかったような人が急に「役立つ」ようなこともあるのです。「長らくご主人が奥様を支えてきたが、奥様が回復するに従って、ここ数年ほとんど会っていなかった友人の役割が大きなものになってきた」といった具合です。 長らく支えてきた方からすると、起こっている変化について、そして新たに助けになってくれる人が「本当に助けになっているかどうか」は、行動や言動を見ながらある程度見抜けるはずです。間違った方向に引っ張られていないか(カルト宗教の勧誘など)どうかを確認しながらも、支える側としても変化を受け入れ、そしてその変化を喜べる日が来ると信じて頂ければと願います。

自死遺族になってから時間とともに会う人は変わる | シンパス相談室
PAGETOP
Copyright © シンパス相談室 All Rights Reserved.